×

気になるキーワードを入力してください

SNSで最新情報をチェック

「晴海線」の開業と「晴海橋梁」の誕生

東京港にある9つの埠頭のうち、5つの埠頭には東京都港湾局が運営していた貨物鉄道が6路線あった。そのうちのひとつである晴海線が開業したのは、晴海埠頭が戦後の米軍接収から解除されたのちの1957(昭和32)年のことであった。晴海線は、国鉄線(現JR)と接続する越中島貨物駅(江東区塩浜)から豊洲埠頭を結んでいた深川線の途中から分岐して晴海埠頭へとつづく路線だった。その路線長は、引き込み線や側線などを合わせると約10kmもあったという。

晴海線の起点(深川線分岐点)から0k848m900の地点にある「晴海橋梁」は、中央区晴海と江東区豊洲を結ぶ晴海運河に架かる鉄道橋で、港湾局の専用線に4か所あった橋梁のうちの一つだ。鉄橋とコンクリート橋を組み合わせた橋長は約190mあり、その中央に位置する「鉄橋」は、鉄道用としては日本で最初に鋼製のローゼ桁を採用したものだった。このローゼ桁とはアーチ橋のことで、その径間は約59mあり、設計は国鉄・東京工事局(現JR)で、製作は石川島重工業(現・IHI)が担当し、1957(昭和32)年に完成した。その後、32年間にわたり東京の物流を担っていた貨物列車の運行を支え続けた。

かつての東京都港湾局専用線の路線図〔筆者加筆〕=資料所蔵/JLNA
晴海橋梁の全体を示した図面。鉄橋(ローゼ桁)を中心に、左右にコンクリート製の桁が3径間ずつ配置される。〔側面図より一部抜粋〕=資料提供/東京都
晴海線開通当日の祝賀列車。当時は国鉄のSLが貨物列車をけん引していた=1957(昭和32)年12月17日、中央区晴海、写真所蔵/JLNA

路線廃止と残置された橋梁

昭和40年以降、東京都専用線の貨物取扱量は、年々減少の一途をたどった。昭和の終わりごろには6路線あった専用線も晴海線を残すだけになってしまい、1989(平成元)年にはその晴海線も廃止された。これにより、59年間にもおよぶ東京港を取り巻く貨物専用線の歴史は、終止符を打った。

 廃線となった線路敷のほとんどは、周辺地域の再開発によって姿を消していったが、晴海運河に架かる晴海橋梁だけは“貴重な存在”であったこともあり、長らく残置状態にあった。過去には、撤去・解体の話もあったが、そうした危機も乗り越えながら東京都専用線のシンボルとして晴海の地に鎮座していた。

廃止になるころの晴海橋梁をゆく貨物列車=1988(昭和63)年12月、中央区晴海、写真提供/東京臨海部広報展示室
廃止から28年が経過したころの晴海橋梁の中央区側を見たところ。江東区と中央区の区界を流れる晴海運河で=2017年10月24日
塗装も剥げ落ち、鉄骨の素地がむき出しだったころの晴海橋梁のローゼ桁。江東区と中央区の区界を流れる晴海運河で=2017年10月24日
次のページ
廃止から36年、遊歩道としての活路
icon-next-galary
icon-prev 1 2 3icon-next
関連記事
あなたにおすすめ

関連キーワード

この記事のライター

工藤直通
工藤直通

工藤直通

おとなの自動車保険

最新刊

全店実食調査でお届けするグルメ情報誌『おとなの週末』。2025年9月16日発売の10月号では、学生街…