工場増産による専用鉄道化と峩朗鉱業専用鉄道の誕生
浅野セメントとなったのち、鉄道省の上磯駅と北海道工場とを結ぶ軌道線は、1929(昭和4)年に動力を電気(直流600ボルト)と蒸気を併用する認可申請を行い、4年の歳月をかけて1933(昭和8)年に「浅野セメント専用鉄道」として運転を開始した。当初はポール集電式の凸型電気機関車(2号機)1両と、連結器の形状が混在していたことから両方の連結器を備えた控車1両と貨車3両が就役した。
入換作業を行う上で、ポール式集電装置では不便となり、1936(昭和11)年10月からはパンタグラフ式集電装置へと取替をおこなった。工場は増産体制をとり、1939(昭和14)年には工場内に貨車積込場を開設した。少々はなしが複雑になるが、戦時中、採掘場のあった峩朗鉱山は、日本セメントと日鉄鉱業が共同出資した峩朗礦業という独立した会社となり、その峩朗礦業は1943(昭和18)年に工場と峩朗鉱山までの電気を動力とした専用鉄道化の免許申請を行い、翌年にこの免許は下付された。峩朗礦業専用鉄道のはじまりである。なお、工場内にあった専用鉄道は浅野セメント構内専用鉄道のままであった。
1945(昭和20)年2月には、戦時増産体制のなか、峩朗鉱山へ向かう専用線の途中から直接、鉄道省の上磯駅へとつながる800mの連絡線路の建設にも着手した。この連絡線は、資材と資金不足により、開業したのは戦後となる1948(昭和23)年のことであった。先の大戦が終わりを迎えた1946(昭和21)年からは、北海道石灰開発有限会社の工場構内専用線の使用を認め、貨車による同社の売石出荷を開始した。1947(昭和22)年には、浅野セメントは日本セメントへと社名を変更し、峩朗礦業は1949(昭和24)年2月に所有していた専用鉄道を日本セメントに譲渡した。これにより、日本セメント上磯工場専用鉄道となった。
1950(昭和25)年には、峩朗鉱山へ向かう専用線の途中から分岐していた添山粘土線が廃止され、桜岱粘土山に向けて新たに分岐線を開設した。




