新駅設置の要望と建設計画の断念
「保留」となった連絡線の建設については、地元横浜市も「社会情勢の急変は著しく実施困難なる事業」という認識でおり、実現のあかつきには地域交通の便に寄与するものとして将来適当の機会に実施することを願っていた。そのうえで、横浜市の中心地帯を通す路線であることから、次のような意見を聞き入れるように東京横浜電鉄へ申し入れを行っていた。
建設する線路は「スラブ式高架線」として街の美観を保ち、その高架下は店舗として利用できる構造とすること、野毛通りに面する出入口を設けた「新駅」を設置すること、鉄道および関連するバスの運営は市の要望を聞き入れること、などであった。
その後、先の大戦の戦局は悪化の一途をたどり、1944(昭和19)年11月になると運輸通信省(当時)は、東京急行電鉄(旧・東京横浜電鉄)に対し、「緊要度を勘案するに時局下では資材の配当困難と認め、本鉄道の実現見込み無きをもって申請書を返付する」旨の通知が発出された。結果、連絡線建設計画は断念せざるを得ない状況となり、東横線と京急線との相互乗り入れという夢は、実現することはなかった。



