「極秘扱い」として秘密裏に運行
1942(昭和17)年2月19日、この日の皇居前広場では「戦勝祝賀の日」が催され、昭和天皇は二重橋(鉄橋)へお出ましになった。ハワイやフィリピン島での大戦果を挙げたことに対し、市民は歓呼した。しかし、その後の6月には、ミッドウェー海戦で日本海軍は空母4隻、搭載機322機などを失い、戦局の主導権をアメリカに握られるようになっていった。
この年の御召列車は、3月に昭和天皇が埼玉県内にあった陸軍航空士官学校へ行幸した時からはじまるが、5月になると時局の都合により、香淳皇后の鹿島神宮と香取神宮への参拝が中止となり、これ以後に計画された御召列車は、「極秘扱い」または「秘扱い」として秘密裏に運行するようになった。これによって、国民は事前に皇室のご動静を知ることができなくなり、御召列車の存在そのものも表舞台から姿を消していった。
1942(昭和17)年に走った御召列車の運行回数は、昭和天皇7回、香淳皇后6回(うち中止4回)、天皇・皇后両陛下御同乗5回(うち中止1回)、皇太后〔貞明皇后〕3回、皇太子1回を数えた。その後も、1943(昭和18)年には18回(うち中止3回)、1944(昭和19)年は11回にわたって御召列車の運行が行われた。しかし、その昭和19年も明仁皇太子(現・上皇陛下)が「戦争疎開」によって栃木県日光へと向かう御召列車(7月10日運転/原宿→日光)が最後となり、以後、終戦まで御召列車の運行は行われていない。※回数は、1日に複数の列車(例えば行きと帰りなど)が走る場合でも1回として計上した。





