終戦から81年を迎えた2026(令和8)年8月15日。今夏も、東京・千代田区の日本武道館では「全国戦没者追悼式」が行われ、正午の時報とともに黙とうが捧げられる。先の大戦が開戦した1941(昭和16)年の翌年となる昭和17年12月に昭和天皇は、「戦勝祈願」のため御召列車で伊勢の神宮へと向かわれた。開戦から終戦までの間に運行された御召列車の運行本数は54回/日(うち中止8回)あった。しかし、戦局が悪化した1944(昭和19)年7月以降は、その出番もなくなり、御召列車そのものも空襲を逃れるために疎開した。これまで多くを語られてこなかった皇室の鉄道史にみる特殊な御召列車について、解き明かすことにしたい。
※トップ画像は、お召列車を降りられた昭和天皇と香淳皇后。筑前新宮駅(→現・福工大前駅)で=1958年4月17日、福岡市東区、写真/星山一男コレクション
外交交渉か、開戦か
1941(昭和16)年7月、アメリカは日本の動きをけん制し、在米日本資産を凍結した。イギリス、オランダもこれに続いた。こうした情勢のなか、9月6日の御前会議において「帝国国策遂行要領」が裁可され、この日を境に対米英戦争へと風向きが変わってゆく。この要領には、「帝国は自存自衛をまっとうするため、対米戦争を辞せざる決意のもとに、おおむね10月下旬を目途として戦争準備を完整す」とあり、続けて「帝国は(前文に)並行して米、英に対し、外交の手段を尽くして帝国の要求貫徹に努む」と記されていた。
先の御前会議の前日には、近衛文麿首相が宮中に参内し、この要領を昭和天皇に内奏(申しあげる、の意)を行った。昭和天皇は、近衛首相に対し「この内容では、第一に戦争準備、第二に外交交渉を掲げているが、これでは戦争が主で外交が二の次であるかのようになっていないか」と苦言を呈し、統帥部の意見はどうなっているのかと問いただしたという。近衛首相は直ちに参謀総長の杉山元と軍令部総長の永野修身の両名を呼び出し、昭和天皇に拝謁を賜った。天皇は、ふたりの総長に意見を聞いたところ、「あくまでも外交交渉を先行させたい」と答えたといわれる。
しかし、これに反するように軍部は日米開戦に向かって突き進んでゆく。近衛首相は、“日米交渉”を模索していたものの、ついに10月18日に第3次近衛内閣は総辞職へと追い込まれた。これに代わって誕生したのが、東条英機内閣だった。昭和天皇は、軍部の開戦に対する考え方に難色を示していたといわれるが、軍部は次第に「開戦やむなし」の方向へと舵を切っていった。11月5日の御前会議では、「対米交渉案」と「武力発動の時期を12月初旬」とすることを決定した。
昭和天皇は11月7日~15日まで、香淳皇后と2歳8か月になる貴子内親王(第5皇女、現・島津貴子さん)を連れ立って、神奈川県の葉山御用邸へ御召列車(7日=東京→逗子、15日=逗子→東京)で静養に出かけられた。これから起きることを予期しての最後の団らんを楽しむためだったのであろうか。この御召列車は、天皇と皇后が別々の御料車に乗車するという、明治時代から踏襲された乗車作法の最後となった。皇室用客車の編成は、461+300+400+330+御料車第1号〔昭和天皇〕+御料車第2号〔香淳皇后と貴子内親王〕+340〔非常退避設備を備えた供奉車〕+460の8両であった。※3桁の数字は供奉車(=お付きの人が乗る車両)を示す。
そして、ついには12月1日の御前会議で、“対米英蘭開戦”の聖断がくだされた。実のところ、この御前会議の前から既に軍部では、開戦の日を12月8日と決めていたといわれる。その12月8日に「宣戦の詔書」が発布され、ついに太平洋戦争がはじまった。











