極秘裏に「戦勝祈願」へと向かった御召列車
敗戦への道を辿(たど)り始めていた1942(昭和17)年11月19日、軍部は昭和天皇に対して神宮(伊勢の神宮)への参拝を打診した。23日午後になって天皇は、12月の上旬から中旬に“皇室の祖神”をお祀りする神宮へ参拝するご内意(聖断)を側近らに伝えた。軍部としては、この参拝の日を”先の大戦”の開戦1周年の日(12月8日)に行おうと画策していた。これを発案したのは、時の首相、東条英機であった。
早くも翌日には、鉄道省に対して極秘のうちに御召列車の運転要請が行われ、実務協議は11月26日に京都で実施することが決定した。しかし、準備期間が2週間しかなく、前例(昭和16年5月の香淳皇后の御参拝)の諸条件を踏襲したとしても、「鉄道関係等については到底万全を期し得るや否やに疑問とせられたり」と、焦りをみせていた。
11月26日午前、京都府庁で第1回の実務者協議が行われ、宮内当局の予想日程は12月11~13日(参拝は12日)とし、12月5日までに最終決定することが告げられた。この会議の中で、御召列車の“防空体制”についても議論が行われ、宮内省の方針は「防空警報発令の場合にも情勢により出御あらせらる」、「戦時下の行幸にて情勢上各般に亘り考慮(中略)せられたり」と申し送られた。
具体的には、①御召列車には特殊の「よ号装置(=鋼鉄でできた箱状の防弾退避設備)」を備えた近衛将校室付きの供奉車340号を連結し、同車内に近衛将校5名を待機させる。②供奉車461号には、陸軍無線電話隊(無線服務者将校1、下士官3、兵員5、陸軍省防衛課員1)を乗車させる、であった。また、直前を走る指導列車(御召列車の15分前を走行する確認列車)には、連結する客車3両のうちの1両(カニ3710)に直接の防空部隊として機関砲一中隊(砲四門、兵員50名)を搭乗させるなど、万全の体制で計画された。
特に、戦時中の「極秘扱い」として運行する御召列車からは、目立つものは排除し、当然、機関車前頭部への国旗の掲揚は中止された。その代わり、鉄道省側は機関車に掲げる小さな「御召」と書かれた札(仕業札)をけん引する機関車に掲出してよいかを宮内省へ照会し、同省はこれを承諾した。いっぽう、昭和天皇が乗車する御料車への菊華御紋章は、通常どおり掲出された。
この神宮参拝は、「戦勝祈願」という印象が強いが、当時の「側近日誌」に記された昭和天皇が語ったとされるご内意には、「未曽有の戦果を収めたるを御奉告あらせらるると共に只管〔ひたすら〕に神明の加護を御祈念…(中略)…大東亜共栄圏を確立し、“世界の平和”と文化に寄興し以て皇國の光栄を保全し…」とあり、平和解決を模索していたといわれる昭和天皇のお考えが、色濃く記されていた。
昭和天皇を乗せた御召列車は12月11日、厳戒態勢の東海道本線を西下し、伊勢の神宮へと向かった。この事実は、その一切を極秘扱いとして情報統制していたため、国民がその事実を知らされたのは、昭和天皇が帰京した翌日の12月14日のことだった。戦後、昭和天皇は「戦争終息奉告」のため、1945(昭和20)年11月14日に再び、伊勢の神宮をお召列車で訪れている。



文・写真/工藤直通
くどう・なおみち。日本地方新聞協会皇室担当写真記者。1970年、東京都生まれ。10歳から始めた鉄道写真をきっかけに、中学生の頃より特別列車(お召列車)の撮影を通じて皇室に関心をもつようになる。高校在学中から出版業に携わり、以降、乗り物を通じた皇室取材を重ねる。著書に「天皇陛下と皇族方と乗り物と」(講談社ベック/講談社)、「天皇陛下と鉄道」(交通新聞社)など。日本写真家協会正会員、NPS会員、鉄道友の会会員。








