1990年代半ばは激動の時代だった。バブル経済が崩壊し、阪神・淡路大震災、オウム真理教による地下鉄サリン事件、自衛隊の海外派遣、Jリーグ開幕に、日本人大リーガーの誕生、そして、パソコンと携帯電話が普及し、OA化が一気に進んでいった。そんな時代を、浅田次郎さんがあくまで庶民の目、ローアングルからの視点で切り取ったエッセイ「勇気凛凛ルリの色」(週刊現代1994年9月24日号~1998年10月17日号掲載)は、28年の時を経てもまったく古びていない。今でもおおいに笑い怒り哀しみ泣くことができる。また、読めば、あの頃と何が変わり、変わっていないのか明確に浮かび上がってくる。
この平成の名エッセイの精髄を、ベストセレクションとしてお送りする連載の第40回。大晦日から元旦にかけて、国によって、あるいは国内でも地方によって、さまざまな風習があるようですが、作家の家にも独特の年越しの習慣があるようで……。
「奇習について」
年末年始、作家の特殊事情とは?
一朝、机上のまどろみから覚めて幽鬼の如く書斎をよろばい出ると、食卓が常ならぬ賑わいであった。
寝床に入らぬ日が1週間も続いていた。机に向ったまま、眠くなれば、座椅子を倒して数時間昏睡し、ハタと目覚めて仕事をする。その繰り返しであった。
見れば家人も娘も老母も、なぜかみなよそ行きのなりをしている。覚めきらぬままに変事を予感し、「ど、どうした。なにかあったのか」と訊くと、口を揃えて「おめでとうございます」と言う。
とうとう直木賞候補の知らせが来たのだと思い、「やった、やった」と着物の前がはだけるのもかまわず狂喜した。
歌人は説明するのも面倒だとみえて、テレビのスイッチを入れた。たちまち、典雅なことほぎの音曲が流れ、私はおそまきながら元旦の朝を知ったのであった。
「なんだ、正月か……」と、私は肩を落した。
娘はプッと吹き出し、家人はウンザリと台所に消え、老母は「まったく何の因果だかねえ……」と、気の毒そうに呟いた。
思えばこの異常な状況は、昨年に続き2度目であった。
つまり、こういうことなのだ。
週刊誌はどこも年末年始の合併号というやつを出すので、12月の半ばに原稿を渡してしまうと正月の5日まで音沙汰がなくなる。
月刊誌は20日前後が2月号の締切で、それを了えればやはり音信が途絶える。
こうして1年に一度だけ、約2週間に及ぶ空白の時間が私に与えられる。ただし「2週間の休み」ではない。「2週間の余裕」、いや、「2週間の猶予」という方が正しかろう。
書き下ろしの仕事は向こう2年分(というか、過去2年分といか)、溜まりに溜まっている。そこで私は、この「2週間の猶予」に全力を傾注するために、密室にこもる。
時刻を知ると疲れがドッと出るので、時計は置かない。雨戸を閉めきり、仮眠と仕事を不規則に続けると、日付はまったくわからなくなる。
弁当状の食事が、午前10時と午後7時に運ばれてくるのだが、3日も経てばその時間すら認識できなくなる。コーヒーはポットに補充されており、灰皿は火のない火鉢を代用としているので交換の要はない。
こうして暦のない日々が過ぎるのである。
ちなみに、同業の中には机の下にシビンを置いているツワモノもいるそうだが、私はそこまでハードボイルドではないので、トイレにだけは行く。ただし、もうダメというところまで我慢するから、折り悪しくクライマックスシーンにさしかかっていたりすると、本当にダメになることもある。
パンツを替えながら、俺はナゼこうも毎年、「2週間の猶予」に拘るのだろうと考える。
さしたる理由は思い当らない。
しいて言うなら、かつてしばしば「2週間だけ待ってやる」と他人を脅したり、また脅されたりした。向こう2週間の喧嘩手形をさんざ振ったり受けたりした暗い過去もある。年末ともなればそういう夜討ち朝駆けは行事のようなものであった。命がけの記憶はいまだに強迫観念となって、私を縛めているのかもしれない、と思う。