「恋愛について」
取材旅行先に現れたラスボス女性編集者
このテーマは、私が小説家である以上まっさきに書かねばならなかったものなのだが、何度か考えては躇(ためら)い、筆を執っては赤面し、書きかけては急激な便意に襲われたりしたあげく、やっとの思いで決心した(ここまで三行)。
私はいっけん厚顔無恥のひとでなしであるが、実はシャイである。
したがって、小説を書きながらでも男女が愛を語らうシーンになると、心臓がバックンバックンと高鳴ってしまい、いざ接吻、さらにベッドインともなれば、ほとんど具体的描写を割愛して、翌朝みずいろの窓辺に小鳥が鳴いてしまうのである。
ならば恋愛経験が少ないのかというと、これは人並みにある。ただし、「あなたを愛しています♡」と口にしたことはない。
性的体験が貧しいのかというと、これは自信をもって人並み以上である。この際にももちろん「愛してるよ♡」などとは言わず、ひたすら寡黙にことをいたす。
ところがちかごろ、私の周辺におる編集者たちが声を揃えて、恋愛小説を書けと要求してきた。以下は記憶に鮮明な各社のオーダーである。
●某月某日、B社H氏。
「しっとりとした大人の恋、男女の心の機微を、ゼヒ」
●某月某日、T社S氏。
「ぶっちぎりの恋愛小説を」
●某月某日、F社H女史。
「浅田さんにはきっと胸のときめくような恋物語が書けるのではないでしょうか」
●某月某日、G社T氏。
「次の連載小説にはロマンスをたっぷりと盛りこんで下さい」
──みなさん存外、真顔であった。
八百屋に行って肉をくれと言うのは無理な相談だと思う。それとも彼らは八百屋に肉も置けと強要しているのであろうか。あるいはまた、この八百屋はもしかしたら肉屋なのではないかと勝手な想像をめぐらしているのであろうか。
かくて極道作家は、毎月恒例の京都取材旅行へと旅立った(この旅行中、京都で発生した山口組vs.会津小鉄の抗争事件は、私とは一切関係ない。念のため)。
以前にも書いたが、私は某月刊誌上に連載中の小説を、毎月京都のホテルにこもって執筆している。京都が舞台となっているので、季節を作中と同時進行させようという目論見である。
祇園祭の近い古都は、やわらかな雨であった。仕事に疲れてたそがれの町に出れば、辻々にはこんちきちん、こんちきちん、と祗園ばやしが流れていた。
京都はいつも、私を任意の旅人に変えてくれる。知り合いのひとりとてないこと、それにまさる安息はない。
ヒロインの歩く道筋をたどり、ときおり気に入った街角に立ち止まって、言葉のデッサンを書き取る。
青蓮院の縁先に腰を下ろし、雨に濡れた青苔の庭を見ながら、美しい恋物語を書いてみようかな、と思った。そう、恋が遠い花火にならぬ、今のうちに。
雨に心を洗われてホテルに戻ると、長い付き合いの女性編集者が私を待ち伏せていた。
10日後に原稿を渡す約束をしている。が、当然私は約束を忘却しているのであった。おそらく私が忘却しているであろうと予測して、卒然と出現する彼女は名編集者と言える。
とっさに私は、まずいところでまずいやつに会ったと思い、彼女はここで会ったが百年目という顔をした。私たちはあたかも偶然の邂逅(かいこう)をしたかのような挨拶を交わし、ハハハと笑った。
女史は武闘派編集者としてつとに名を知られている。抜群の知性と編集センスを持つうえ、携帯電話を2丁隠し持っており、1年中24時間スクランブル態勢を維持し、しかも原稿を取らずんば生きてまた帰らじという気魄が、全身に充ち満ちている。殺せば確実に化けて出るであろうという印象もある。
しかし、名編集者というものは必ず迷える作家に福音を授けてくれる。作家自身が現在立たされているスタンスを正確に察知し、とまどいから一歩を踏み出す動機と勇気とを与えてくれる。
京都からの帰途、新幹線の車中で女史と「恋愛論」を戦わすことができたのは、今回の旅における最大の収穫と言ってよいであろう。