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国内外のアーティスト2000人以上にインタビューした音楽評論家の岩田由記夫さんが、とっておきの秘話を交えて、昭和・平成・令和の「音楽の達人たち」の実像に迫ります。高橋幸宏の第2回は、本人の証言に加え、アルファレコードを設立した村井邦彦、シンセサイザー・プログラマーの松武秀樹、ベーシストの後藤次利の言葉を紹介しながら、イエロー・マジック・オーケストラ(YMO)の足跡を俯瞰します。「テクノポップ」という言葉は、誰が使い始めたのか―――。

細野晴臣『コチンの月』の延長線上に、YMO結成

1970年代中期を過ぎた頃、細野晴臣はシンセサイザーという楽器に、音楽の新たな可能性を見出した。自身で実験的なアルバム『コチンの月』(1978年)を制作し、その発想の延長線上でイエロー・マジック・オーケストラを高橋幸宏、坂本龍一と結成する。

1978年、デビュー・アルバム『イエロー・マジック・オーケストラ』を発表する。11月下旬の日本発売時点では、一部の音楽マニアにしか注目されなかった。現在でこそ、この3人は日本の音楽シーンのレジェンドとされているが、コアな音楽ファンを除けば、一般的には3人とも知名度は低かった。

村井邦彦の証言「トミー・リピューマが関心を示した」

デビュー・アルバムのリリース元は、赤い鳥の「翼をください」などのヒット曲で有名な村井邦彦が社長を務めていたアルファレコードだった。若い頃から海外に渡り、アメリカの音楽関係者の多くと知り合っていた村井邦彦は、イエロー・マジック・オーケストラ~Y.M.O.の音源をそういった関係者に聴かせた。

現在はロサンゼルス在住の村井邦彦が帰国した時、逢う機会があった。その時、Y.M.O.の話となり、アメリカの関係者の中でも特に関心を示したのが、トミー・リピューマだったと教えてくれた。マイルス・デイヴィス、ダイアナ・クラール、ポール・マッカートニーなど数多くのミュージシャンをプロデュースした大プロデューサーのトミー・リピューマは、Y.M.Oに関心を示した。

そのトミー・リピューマの後押しもあって、1979年5月30日、アメリカでもY.M.O.のUS盤が発売された。と同時に前回述べたように、イギリスでもY.M.O.は認められた。そして、海外からの逆輸入という形で、日本でもジャケットを変更して、1979年7月25日、『イエロー・マジック・オーケストラ』は再リリースされた。そして、1980年6月21日発売の高橋幸宏が作曲したシングル「ライディーン」のヒットにより、Y.M.Oの知名度は一般的な音楽ファンにまで広がっていった。

YMOのデビュー・アルバム『イエロー・マジック・オーケストラ』や『ソリッド・ステイト・サヴァイヴァー』、『黒船』など高橋幸宏が参加した名盤の数々
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