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2003(平成15)年に国の重要文化財に指定されたJR東京駅丸の内駅舎。駅が開業したのは1914(大正3)年12月20日のことで、当初はその年の11月に予定していた「大正御大礼(大正天皇の即位礼)」に合わせて竣工させて、京都御所へ向かう御召列車が発着する「天皇の駅」として使用するはずだった。レンガ造りの駅舎正面には、帝室用玄関(当時)を備えるなど、皇室利用駅としてのイメージも強く、当時は宮城(きゅうじょう)と呼ばれた皇居にほど近い場所ということもあり、「地下通路で結ばれているのではないか……」といった“噂”が絶えなかったという。現在も皇室の方々が利用されている東京駅だが、今でも同じような“都市伝説”は存在するのだろうか。

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大正御大礼で華々しく開業するはずが・・・・

冒頭でも記したように、1914(大正3)年11月に行われるはずだった大正の御大礼は、その年の4月に明治天皇の后(きさき)だった昭憲皇太后(しょうけんこうたごう)が亡くなられ、1年間の喪に服すため翌年の1915(大正4年)年11月20日に延期された。このため、東京駅は目的の一つであった「天皇の駅」として開業することは見送られ、ひっそりと1914(大正3)年12月20日に「東京停車場」として一般向けに旅客営業を開始した。

赤レンガ駅舎の正面中央には、天皇用の玄関として「帝室用御出入口」が特別に設けられ、専用の待合室「便殿(びんでん)」や、玄関からプラットホーム下までを直結した「帝室用廊下(通路)」が用意された。当時は、電車用と汽車用のホームが4つあるだけのコンパクトな駅だった。

開業当時の東京停車場の写真。停車場とは「駅」を表す鉄道用語で、一般には東京駅と記された=写真/宮内公文書館蔵
開業当時の東京駅を表した図面。今とは異なり、向かって左側(北口)が乗車専用の改札口、右側(南口)が降車専用の集札口に分かれていた。エキナカなど影も形もない時代ゆえ、今のようにホーム下を南北に行き来することはできなかった。中央上部に帝室玄関があり、そこからはホームへとつながる帝室用通路が見てとれる=写真/宮内公文書館
帝室用玄関を入った広間は、2階部分まで吹き抜けとなっていた=写真/宮内公文書館蔵
帝室用玄関を入ると、控えの間「便殿付属室(びんでんふぞくしつ)」があった=写真/宮内公文書館蔵

空襲で被災

1945(昭和20)年5月24日夜の米軍による空襲のため、東京駅も焼けてしまう。修復された後、GHQ(連合国軍最高司令官総司令部)による占領下では、連合国軍の管理下におかれ、米兵たちが専用玄関を使用した。駅舎の修復は、まずは旅客利用部分を優先し、皇室用の施設は、1952(昭和27)年のサンフランシスコ講和条約が結ばれた翌年から工事費4千万円(当時)と2年の歳月をかけて、近代的なものへと生まれ変わった。

皇室用の控えの間にもともと備えられていた天皇の玉座(椅子)とテーブルなどは、東京駅全焼の際も格納庫で保管していたため、焼失を逃れた。ホームまでの帝室用通路は、「特別通路」と呼び名を変え、コンクリート造りで再建された。

空襲前の大廊下。床材は大理石で、中央には絨毯(じゅうたん)が敷かれた。向かって左の扉を開けると帝室用玄関の広間、右の扉を開けると控えの間(便殿)があった。この撮影者の立ち位置の右横にはプラットホームへとつながる帝室用廊下(通路)がある=写真/宮内公文書館蔵
帝室用廊下(通路)も空襲焼失前は、大理石が敷き詰められていた。4つあるプラットホームのうち、一番手前のホームだけはつながっていなかった=写真/宮内公文書館蔵
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現在もある専用のお居間...
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