『その時歴史が動いた』や『連想ゲーム』などNHKの数々の人気番組で司会を務めた元NHK理事待遇アナウンサーの松平定知さんは、大の“城好き”で有名です。旗本の末裔で、NHK時代に「殿」の愛称で慕われた松平さんの妙趣に富んだ歴史のお話をお楽しみください。
長野県立上田高校の校歌に出てくる「英雄」とは?
上田城といえば、真田昌幸が籠城し、2度にわたって徳川の大軍を退けた上田合戦が有名です。真田氏は地元の人たちに愛されており、真田の屋敷跡に建つ県立上田高校の校歌には、「関八州の精鋭を此処に挫きし英雄の~」というフレーズがあります。上田合戦の時は、農民や町民とともに戦ったことが記録に残っており、昌幸の善政が偲ばれます。
信長が本能寺の変で横死すると、旧武田領をめぐって徳川家康、北条氏直、上杉景勝による天正壬午(てんしょうじんご)の乱が起きます。この時上杉は信州北部、徳川は甲斐とそのほかの信州、北条は上野と、旧武田領は分割されました。真田は当初北条につきますが、後に家康方へと身を翻します。そして真田昌幸は家康の後ろ盾で、上田城の築城を開始するのです。
権謀術数を使って生き残る
戦国の世は激動を続け、天正12(1584)年、家康と秀吉は小牧・長久手の合戦に至ります。家康は秀吉対策として北条氏直と手を組もうとし、昌幸に沼田領を北条に譲るよう要請しますが、これを昌幸は拒否、徳川と断交します。この時次男の信繁(幸村)を上杉景勝に人質として送り、今度は上杉の援助で、上田城の築城を続けるのです。めまぐるしく主家を替える真田昌幸ですが、真田のような小大名は権謀術数を使って、生き残っていくほかなかったのです。
天正13(1585)年8月、ついに徳川軍が7000の大軍で攻撃してきます。守る真田軍は6分の1の1200、ここに第一次上田合戦の火ぶたが切って落とされました。徳川方の総大将は後に関ヶ原の戦いの前哨戦となった「伏見城の戦い」で討ち死にした、あの鳥居元忠でした。