「日本人には、どうしても記憶しなければならない日が4つはある。6月23日の沖縄戦終結の日、8月6日と9日の広島・長崎原爆投下の日、そして8月15日の終戦記念日である」。当時皇太子だった上皇陛下は、こう語られた。この4つの日はお慎みの日として、お子さまたちを交えて黙祷される。戦死した人々の霊を弔い、平和を祈る行動は天皇家の大切な仕事である。お二人は慰霊の旅で訪れた土地や、戦後ようやく日本に返還された奄美大島・沖縄の復帰記念日に、それぞれの郷土料理を召し上がるという。今回は、上皇陛下と美智子さまの平和への祈りが込められた郷土料理の物語である。
日光に疎開し、終戦を迎えられた上皇陛下
上皇陛下と美智子さまは、戦火を避ける疎開を経験された世代である。
今の成田空港の敷地にあった千葉県・三里塚の御料牧場に疎開されていた上皇陛下は、1944年(昭和19年)7月8日、静岡県の沼津御用邸から東京に戻り、同10日には栃木県・日光の田母沢(たもざわ)御用邸に移られた。10歳のときのことである。その前日、本土防衛の戦略上の要衝であった太平洋上のマリアナ諸島サイパン島が米軍の攻撃で陥落していた。
やがて東京のみならず宇都宮市も空襲されるようになり、翌1945年(昭和20年)7月、さらに奥日光の南間(なんま)ホテルに移り、そこで終戦を迎えられた。1999年(平成11年)、即位10年にあたっての記者会見で、上皇陛下(当時は天皇陛下)は、「私の幼い記憶は、3歳の時、昭和12年に始まります。この年に盧溝橋事件が起こり、戦争は昭和20年の8月まで続きました。したがって私は戦争のない時を知らないで育ちました」と振り返られた。
日光田母沢御用邸記念公園として一般公開
田母沢御用邸は、1899年(明治32年)に大正天皇(当時は皇太子)のご静養地として造営され、三代にわたる天皇・皇太子が利用されていた。終戦後に廃止されたのち、2000年(平成12年)より、日光田母沢御用邸記念公園として一般に公開されている。建物は江戸時代後期、明治、大正と三時代の建築様式を持つ集合建築群であり、現存する明治・大正期の御用邸のなかでは最大規模である。建物や庭園から皇室文化を垣間見ることができ、2003年(平成15年)に重要文化財に指定されている。
1996年(平成8年)に、51年ぶりに日光田母沢御用邸記念公園を訪れた上皇陛下(当時は天皇陛下)は、お誕生日に際して「御用邸も庭も昔の姿がよく保存されていました。御用邸から近くの紅葉した山々や、遠くにそびえる女峰山や、その他の山々を見て過ごした当時のことは忘れられません」と話されている。
鵠沼海岸から舘林、軽井沢と転々と疎開された美智子さま
一方、陛下のひとつ年下で、1941年(昭和16年)に国民学校1年生だった美智子さまは、戦争中に3回の疎開を経験されている。はじめに疎開されたのは、神奈川県藤沢の鵠沼海岸にある日清製粉の寮であった。疎開したのは、正田家の三男と四男の妻子である。三男英三郎さんの家族は、妻の富美子さんと娘の美智子さま、弟の修さん、妹の恵美子さん。四男順四郎さんの家族は、妻の郁子さんと娘の紀子さんであった。美智子さまの父の正田英三郎さんと叔父の順四郎さんは仕事のため東京に残り、家族離ればなれで暮らしていた。
美智子さまと紀子さんは一つ違いのいとこで、湘南白百合学園(当時は片瀬乃木小学校)に一緒に通われた。日清製粉の寮は、海に近い場所にあった。砂地の広い庭と芝生があり、ときおり訪ねてくる紀子さんの父・順四郎さんに、美智子さまはよく遊んでもらったという。順四郎さんは「順おじさま」「かけっこのおじさま」と呼ばれて、子どもたちの人気者だった。
1945年(昭和20年)3月、硫黄島が陥落。空襲が激しくなり、B29がサイパン島から直接相模湾に侵入してくるようになった。正田家は「鵠沼もアメリカ軍の艦砲射撃の危険がある。館林に疎開しよう」と判断し、美智子さまたちは正田家の本家がある群馬県の舘林に再疎開することとなった。