今でこそ世界で確固たる地位を築いている日本車だが、暗黒のオイルショックで牙を抜かれた1970年代、それを克服し高性能化が顕著になりイケイケ状態だった1980年代、バブル崩壊により1989年を頂点に凋落の兆しを見せた1990年代など波乱万丈の変遷をたどった。高性能や豪華さで魅了したクルマ、デザインで賛否分かれたクルマ、時代を先取りして成功したクルマ、逆にそれが仇となったクルマなどなどいろいろ。本連載は昭和40年代に生まれたオジサンによる日本車回顧録。連載第26回目に取り上げるのは、富士重工の救世主となった初代スバルレガシィだ。
初代レガシィは日本のビンテージイヤーの先陣を切ってデビュー
スバルレガシィがデビューしたのは1989年1月。1989年と言えば、トヨタからは初代セルシオ、2代目MR2、セリカGT-FOUR、3代目スターレット、ランドクルーザー80、日産からはR32型スカイライン、スカイラインGT-R、フェアレディZ、マーチスーパーターボが登場。マツダはユーノスロードスターを市場投入するなど、数え上げたらキリがないくらい日本のクルマ史に名を残す名車が登場したビンテージイヤーと呼ばれている。
その日本のビンテージイヤーの先陣を切って登場したのがスバルレガシィというわけだ。
レガシィはレオーネの後継モデル!?
1980年代のスバル車といえばレオーネだった。乗用タイプモデルとしては世界初のパートタイム4WDを採用したことで、スバルの名前を一気に有名にした。熱狂的なスバルファンのスバリスト、一部のマニアからは絶大な支持を受けていた。しかし、これは裏を返せば、一般受けする存在ではなかったということ。レオーネに乗っている人は、どことなくツーな感じがしたものだ。
そのレオーネはセダン、ツーリングワゴン、クーペ、エステートバン(商用)をラインナップしていた。レガシィシリーズは、セダンとツーリングワゴンで登場。普通に見れば、レガシィはレオーネの後継のように思えるが、1989年にレガシィシリーズがデビューした時にレオーネクーペとツーリングワゴンは生産終了となったが、セダンの1.8Lモデル、エステートバンの販売は継続(1994年まで)。つまりレガシィはレオーネの実質的後継車ではあるのだが、併売されていたこともあり、レオーネよりもひとクラス上のブランニューモデルということになる。
富士重工は興銀自動車部
富士重工はメインバンクだった日本興業銀行(現みずほファイナンシャルグループ)の勧めで1968年に日産と提携。日産のチェリーやサニーを業務委託によって生産。初代レガシィシリーズが開発されている頃の社長は興銀出身の田島敏弘氏だった。
当時の富士重工は『興銀自動車部』と言われるほど興銀がイニシアチブを握っていて、そのスタンスは「重要なのは日産。富士重工が倒産すると困るが、ある程度売れて貸したお金を返してくれるというのが理想」というもの。
だから富士重工の新たなチャレンジは興銀サイドからダメ出しされていたという。それにもかかわらず初代レガシィが登場できたのは、クルマ好きだった田島社長の存在が大きい。
田島氏は、新型車レガシィの開発、新型水平対向エンジンの開発、本格的テストコースの建設(栃木県葛生町・現佐野市)、軽自動車用の新型エンジン、そしてアメリカ・インディアナ州の生産工場建設への投資を決断したというから凄い。
初代レガシィのために会社が倒産!?
しかしその一方で富士重工の財政は非常に危ない状況だった。1985年のプラザ合意による円高、アメリカでの販売不振などにより富士重工は存続の危機を迎えていた。前述のインディアナ州の生産工場はいすゞとの共同出資だったが、その投資額は1000億円近くに上るなど、新たな投資が会社を圧迫していたのは間違いない。
加えて初代レガシィは当時スバルとしては前例がないほどお金をかけたモデルで、エンジン、プラットフォームとも新開発で、4WDも3種類を設定という異例尽くし。初代レガシィはそれほどまで富士重工にとって命運をかけたモデルだということの証なのだが、裏を返せば初代レガシィが失敗すればスバルは倒産の大ピンチだったのは間違いないだろう。実際に当時の新聞、クルマ雑誌などでも富士重工の買収、倒産危機に関する話題が報道されていた。