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東京の南、大田区在住の私は日頃からよく地元の蒲田界隈に飲みに行く。そしてJR蒲田駅東口近くにあるこの店の前を通るたびに、そこが不思議の国の入り口かのような気がしていた。ガラスのショーウィンドウには、パリジェンヌのポスター、飾りのアコーディオン……え、テレビまで? 統一感があるような、ないような。どんな店なんだろ、どんな店主が迎えてくれるんだろ。

昭和のレトロ喫茶、古き良き洋食のレストラン、町の集会場…?

いつしか私は扉の向こうが知りたいと思うようになっていた。不思議の国をちょっと覗きたくなったのだ。ある日の昼過ぎ、思い切って足を踏み入れてみることにした。かのアリスだって、きっとそうしたはず。

昭和のレトロ喫茶、古き良き洋食のレストラン、町の集会場。いろいろな言い方が当てはまる店だろう。ランチでくつろぐサラリーマンの横で、近所のおばあちゃんたちが井戸端会議。サンドイッチを頬張る高校生の横で、2段重ねのホットケーキを楽しむ若いカップル。そこには客の数だけいくつもの“日常”があった。何というか今どきのカフェやファミリーレストランとはまた違う魅力。店は小ぎれいなんだけど、歩んできた年月が醸し出す昔懐かしい空気。それがこの店の愛される“味”となる。

「昭和30~40年代頃は蒲田に映画館がいくつもあって、映画を観た帰りにお茶するのが定番だったの。だからこの辺りは喫茶店街だったんですよ」

迎えてくれたママ、いやマダムと呼びたくなる上品な指田(さしだ)郁代さん(74)は、地元蒲田の出身。大御所女優さんかと思うほど年齢を感じさせないきれいな人だ。寡黙で優しいマスターの指田宏明さん(82)と50年前にお見合い結婚。以来、夫婦で店を切り盛りしている。郁代さんが続ける。

指田さんご夫妻

映画の街「蒲田」で昭和35年に創業

「今は映画館もすっかりなくなってしまって、20軒ほどあった当時の喫茶店で残っているのはうちだけですね」

戦前に「松竹キネマ蒲田撮影所」があった蒲田は映画人も集まる活気あふれる街だったそうだ。戦後も蒲田駅周辺だけで20以上の映画館があったというが、時代の流れで次々と閉館。3年前の2019年にはついにすべての映画館が蒲田から消えてしまった。その変遷を見つめてきた店は、2022年で創業62年。地元ではかなりの古株である。

「主人の実家がいわゆる地主で、兄が始めた事業を20歳ぐらいで引き継いだのがこの店なんです。その時は多額の借金があって、主人が10年かけて地道に借金を返済していたものですから、青春はなかったようでした。30年ぐらい前までは2階建ての1階が喫茶、2階が麻雀屋で、苦しくても決して他の人に貸さず、真面目に商売を続けてきました。今までやってこられたのは土地があり、家賃がかからなかったからでしょう。そうでなければきっと続けていけなかったと思います」

レトロな『チェリー』の外観

そして今、時代はコロナ禍だ。当たり前だと信じていた日常が崩れ、わかってはいても物事に永遠はないという現実を突き付けられた。数十年の歴史がある老舗も、行列ができる人気店も、たくさんの店が閉店した。この店が同じ場所で同じように営業し続けているのは、奇跡と呼んでいいのかもしれない。

けれど残念ながら、奇跡の続きを担う後継者がいない。「数年前からうちの店を含めたエリアで再開発の話もあって、跡継ぎとなる子供もいないし、そろそろ……と思い始めたんです。今はふたりとも健康ですが、どちらかが体調を崩してしまったら、考えなければ」

喫茶店というのは朝から晩まで通し営業だけに仕事が長く続き、経営は思うより大変。深夜まで働いていた若い頃は、無理をし過ぎてお腹に宿った小さな命を失う悲しい過去も経験したという。一時期は高額な不妊治療も受けたそうだが、「ある時、主人がもう止めようと。子供がいなければそれはそれで、ふたりで楽しめばいいと言ってくれて」。

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人気ナンバーワンは「チェリー風焼きチーズカレー」...
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肥田木奈々
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