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詩人で政治家だった屈原

端午(たんご)とは
「端」は始めの意味です。「端午」はもともと月の初めの午の日を指していましたが、後に5月5日を指すようになりました(広辞苑 第6版 より)。

端午の節句の由来
端午の節句の風習は中国を発祥とし、朝鮮半島や東南アジア諸国に広がっています。その由来として中国で語り継がれている伝説は、以下のようなものです。

今からおよそ2300年前、中国に屈原という偉大な詩人がいました。屈原は有能な政治家でもあり、人々から大変慕われていたそうです。しかし陰謀により失脚し、国を憂いながら川に身を投じました。それが5月5日だったといいます。人々は船を出して探しましたが遺体を見つけることは出来ず、遺体を川魚が食べてしまうことを恐れ、握り飯を川に投げ入れました。これがちまきの習慣の発端といいます(参考[3])。

これが史実かどうかは議論がありますが、人々の間で1500年以上もの間、端午の節句の由来として伝承されて来たことは確かなようです。

日本への伝来とちまきの変遷
日本でも端午の節句の歴史は古く、中国から伝来したのは奈良時代とも平安時代ともいわれます。ちまきを食べる風習は平安時代からすでに存在していたそうです。

その昔ちまきは灰汁の中で煮込んで作られていました。灰汁の殺菌・防腐作用のために長期保存が可能で、戦に武士が携帯する食料として用いられていたそうです。その後ちまきは変化を遂げ、おもに和菓子となりました。かつてのちまきは風味が独特なため次第に廃れていきましたが、現代まで受け継がれているのが、鹿児島県の灰汁巻き(あくまき)です。

柏餅とちまき

日本独自の伝統へと変化
中国の端午節には、厄除けとして菖蒲を吊るし、菖蒲酒を飲む習俗がありますが、それが日本にも伝わり、菖蒲湯につかるなどの風習となりました。
また、菖蒲の読みが「尚武」(武事・軍事を重んずること)と重なることから、鎌倉時代には端午節が男の子の節句とされるようになりました。
江戸時代には端午節が五節句の一つとして重要な式日とされ、五月人形を飾ったり、鯉のぼりを立てる風習が一般的になったといわれます。
また前述のように、子孫繁栄を願い柏餅を食べる風習も、江戸を中心に東日本に広がっていきました。

(参考)
[3] 中国と日本の「端午節」(Science Portal China、科学技術振興機構)
https://spc.jst.go.jp/experiences/change/change_1307.html

出題:三井能力開発研究所代表取締役・圓岡太治

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