県民の3人に1人が犠牲になった戦い
沖縄戦は本土決戦の時間を一刻でも引き延ばすための、いわば捨て石の戦(いくさ)であった。だから軍は、それまでの島嶼戦(とうしょせん)の定石であった水際での迎撃戦法を用いず、米軍を無血上陸させたのち縦深陣地での防御戦と狙撃や斬込みを主としたゲリラ戦に持ちこんだ。
折からの雨期と重なり、彼我入り乱れた混戦となったこの戦は、戦略的な使命こそ充分に果たしたものの、すべての県民を巻きこんでしまったのである。
勝利の予定はなく、何日もちこたえるかという戦であった。軍と県民とはこの絶望的な戦を90日にわたって戦った。
この戦闘にあたって米軍は陸軍と海兵隊の最精鋭7個師団、18万3000を投入し、後方支援部隊を含めればその総数は54万8000にのぼる。史上最大の作戦であった。
これを迎え撃つ日本軍は、牛島満中将麾下(きか)の第32軍2個師団半、しかもその装備も練度もおよそ精強とは言いがたかった。援護といえば、九州と台湾から飛来する特攻機のみであった。
3ヵ月におよぶ戦闘の結果、12万2228名の沖縄県民と、6万5908名の県外出身日本兵が死んだ。この数字は沖縄県援護課資料によるが、むろん正確ではあるまい。
米軍上陸前の空爆や疎開途上の艦船沈没による犠牲、餓死、戦病死等を合わせれば、県民の犠牲者は15万人とも、20万人ともいわれ、この数字は当時の県民人口の3分の1を上回る。
どうか読者の周囲を見渡していただきたい。家族の3人に1人、職場の人々の3人に1人が死んだのである。沖縄の戦闘とは、実にそういうものであった。
小禄の海軍根拠地隊司令官・太田実少将は、陣地構築に当たって荒らされて行くサトウキビ畑を歩き、「ご迷惑をおかけして申し訳ありません、緊急事態をどうかご理解下さい」と農民に詫び続けたという。そうして県民の実情を余すところなく見つめ続けた結果、彼は「天皇陛下万歳」も「皇国ノ弥栄」も「神州ノ不滅」もない訣別の電報を、大本営に向けて打電したのである。