多芸多才な辣腕編集者の弱点とは
さて、私事はさておき、私をめぐるエリートの皆さんの意外なる「○○音痴」を並べつらねれば、それだけで1冊の悲喜劇オムニバスを成すほど枚挙にいとまがない。
ここにごく最近目のあたりにした驚天動地のエピソードをご紹介する。
某女史は大手出版社の辣腕(らつわん)編集者、一流大学卒の才媛である。少々年齢に似合わずミーハーな印象はあるものの、それは世間をたばかる仮面。内実は歩く辞典、物言うライブラリイ、動く自動翻訳機とでもいうべき稀有(けう)の能力を備えている。やや行きおくれの感は否めぬが、そんな下々のモラリズム、メンタリズムなどどこ吹く風、休日には馬術をたしなみ、美術館をめぐる。笑顔は美しいが、笑わぬとどこか哲人の風貌があり、殺せばまちがいなく化けて出る、という感じもする。
そんな女史の人格を私はひそかに尊敬し、能力に信倚(しんい)していた。もちろん、彼女に限っては「○○音痴」などという言葉とは無縁であろうと信じていたのである。
過日、銀座三笠会館ティールームにて待ち合わせた。時刻は夜の8時であったと思う。締切ギリギリに仕上った原稿を手渡すためであった。
ともかくギリギリなので、決してお時間には遅れないで下さいと、女史は電話で念を押した。しかし──10分待ち、15分待っても女史はティールームに姿を現さなかった。
携帯電話が鳴った。耳に飛びこんできたのは、日ごろの女史からは想像もつかぬ気弱な声。
「あの~~すみませえ~~ん。ミカサ会館て、どこですかァ~~」
私は憮然とした。三笠会館本店は伝統と格式を誇る銀座の老舗、知らぬとは言わせぬ。
「どこも何も、並木通りの入口だ。早くこい」
「え~~と。その並木通りがですね~~わかんなくなっちゃったんですゥ~~」
「わからなくなったら人に訊け」
「それがですね~~もう10人ぐらいに訊いたんですけど、訊けば訊くほどわからなくなっちゃってェ~~」
これが噂に聞く「方向オンチ」だと私は悟った。
「……今、どこにいる」
「えーと、えーと、たぶん四丁目の交叉点。和光と三越があるから……」
「よし、すぐそばだ。そこから霞ヶ関方向に歩け。すぐに並木通りがある」
「か、か、かすみがせき方向って、どっちですかァ~~」
「築地の反対だ」
「つ、つ、つきじィ~~ともかく行ってみまァす」
さらに15分たっても女史は現れなかった。再び携帯電話が鳴った。
「あの~~、どこまで行っても並木通りがないんですけど、私、いまどこにいるんですかァ~~」
「そんなの知るかっ。いいか、冷静に周囲を観察せよ。何か目印があるだろう」
「めじるし。えーと、えーと、なんだ。博品館劇場とか……」
「ちがうっ! いいか、気をしっかり持て。君はいま、新橋方向に向かっている。ぜんぜん方向がちがう」
「ええっ。新橋ッ! あ、ほんとだ、どうしよう、どうすればいいんですか」
「ハッハッ、そのまま行けばいずれ多摩川を渡り、箱根に至るであろう。まず博品館の角を右折。じきに並木通りにぶつかるのでそれを右折。まっすぐ行って右側が目的地だ」
「うわー、むずかしい」
「むずかしくなんかないっ!」
「ともかく……行ってみます」
さらに10分がたった。再び電話が鳴った。
「あの~、もっともっとわからなくなっちゃったんですけどォ~~」
「……目印を言え」
「帝国ホテルのそば。パーティやるからよく知ってます」
「ちーがーうー! 180度、回れ右。迎えに行くからそのまま現況報告をしながら歩け」
私は携帯電話を耳に当てたまま捜索に出た。
「こちら浅田。いまどこだ。どうぞ」
「ハイ。エスカイヤクラブ、とか」
「それは銀座にいくつもある」
「丸源ビル……」
「それも星の数ほどある。もういい、動くな。そのまま一歩も動くな、俺が捜す」
約30分後、私は銀座七丁目付近の路上で、携帯電話を耳に当てたまま膝を抱えて蹲(うずくま)る女史を発見し、無事保護した。その泣きぬれた顔をひとめ見たとき、私はもう己れの非才を嘆くのはよそうと思った。
ところで、多芸多才な女史はいよいよ登山に挑戦すると言っているのであるが、やはりとめるべきであろうか。
(初出/1996年12月14日号)
浅田次郎
1951年東京生まれ。1995年『地下鉄(メトロ)に乗って』で第16回吉川英治文学新人賞を受賞。以降、『鉄道員(ぽっぽや)』で1997年に第117回直木賞、2000年『壬生義士伝』で第13回柴田錬三郎賞、2006年『お腹(はら)召しませ』で第1回中央公論文芸賞・第10回司馬遼太郎賞、2008年『中原の虹』で第42回吉川英治文学賞、2010年『終わらざる夏』で第64回毎日出版文化賞、2016年『帰郷』で第43回大佛次郎賞を受賞するなど数々の文学賞に輝く。また旺盛な執筆活動とその功績により、2015年に紫綬褒章を受章、2019年に第67回菊池寛賞を受賞している。他に『プリズンホテル』『天切り松 闇がたり』『蒼穹の昴』のシリーズや『憑神』『赤猫異聞』『一路』『神坐す山の物語』『ブラック オア ホワイト』『わが心のジェニファー』『おもかげ』『長く高い壁 The Great Wall』『大名倒産』『流人道中記』『兵諌』『母の待つ里』など多数の著書がある。