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きっかけは小田急線の開かずの踏切だった

そんなある日、私はオンボロミニカに乗って出社する途中、世田谷通りの渋滞にハマッた。ブレーキのない車は走っていても疲れるが、渋滞中はもっと疲れる。アクセルとサイドブレーキの微妙な操作をくり返さねばならないのである。

遅刻は体罰と決まっていた。そこで私は、多摩川を渡ると、かって知ったる抜け道を選んだ。成城の急坂はパワー不足で登れないから、喜多見駅前の踏切を渡ることにした。これはバクチであった。なぜかというと、悪名高き小田急の過密ダイヤにより、その踏切はいったん閉まったら最後20分も開かないのである。

案の定、踏切の手前にさしかかったとき、信号が鳴った。私の前はいかにもイチかバチかという感じのするダンプカーであったので、よしイケると思った。ところが、一気に突破するかと思いきや、そいつはプスンと止まってしまったのである。これで私の遅刻は決定した。必死でサイドブレーキを引いた私は、全然因縁をつける筋合ではないのだけれど、とりあえず頭に来て車を降りた。

タラタラ走ってんじゃねーよ、タコ、と言ったかどうかは忘れたが、近くまで寄ってフト見ると案外強そうなやつだったので怖いからやめた。

喜多見駅改札口の人々はうろんな目付きで私を見ていた。ひっこみのつかなくなった私は、挙げかけた手で頭をかきながら自販機でも探すふりをした。と、そのとき駅前の第一勧銀の宝クジボックスが、カラカラとシャッターを開けたのである。

暗黙の定めによれば、クスブリは決して積極的に生きてはならず、バクチに手を出してはならず、りきんでへもしてはならない。いわんや宝クジを買うなど、金をドブに捨てるのも同じである。

しかし周囲の冷たい視線に圧迫された私は、やむなく2000円の有金をはたいて、10枚の宝クジを買ったのであった。それは「その場で当たるラッキー7」とかいうふれこみの、スピードくじであった。

7が3つ揃えば……

30分おくれで出社し、社長に回し蹴りをくらったあと、私は倉庫兼隔離室に閉じこもった。昼になってもメシが食えないので、なりゆきとはいえ無駄づかいをしたことを反省しながら、スピードくじなるものを取り出した。

銀色のマークが六つ並んでいる。その下には数字が隠されていて、「7」が3つ揃えば100万円なんだそうだ。そんなことはどうでも良かった。せめて「2」が揃えばタバコが買える。たぶんムリだろうけど「5」が3つ出ればメシが食える。「とんがれ、とんがれ」とか呟きながら、マークをこすった。

と、いきなり出たのである。

しばらく凍結した。どう見ても「7」が3つで、どう読み返しても「7」が3つ揃えば1等100万円、と書いてある。

おりしもケバい女子社員が倉庫の隅でコピーを取っていた。私が宝クジをつまんで幽鬼のごとく背中に立つと、女子社員はいきなりパンツを脱がされたぐらいに愕いた。

「待て。何もしない。これを見てくれないか」

クスブリの何たるかを知っているらしい女子社員は、口を押さえながら宝クジを手に取り、「ああっ!」と、凍結した。

「言うなよ、誰にも言うなよ」

「言わないわ、ゼッタイ言わないわ」

命ばかりはお助け、という感じで女子社員は出て行った。

私はその足で最寄りの第一勧銀(現みずほ銀行/編集部注)へと走った。何しろ「その場で当たる」スピードくじなのである。銀行に行き、「宝クジ、当たっちゃったんだけど」と言うと、窓口の女も「ええっ!」と目を剥いた。胴元がアセるぐらいなのだから、このバクチはかなりボロいのだろう。

ご多分に洩れず応接室に通され、モミ手をした年配の行員が「おめでとうございます」と言うので、「ありがとうございます」と答えた。かつてそれほど心のこもった挨拶をかわしたことはなかった。

行員は定期がどうの、お通帳がどうのとわからんことを言った。何だか支払いをしぶるノミ屋のような気がして激怒した私は、一方的に権利を主張して100万円の現金を揃えさせた。

もしかしたら帰りに車にはねられるかもしれないので、用心しいしい社にもどった。社内はてんやわんやの大騒ぎだったのである。女子社員がバラしたのであった。

「おめでとう!」と、債権者の社長は叫んだ。ついつい「ありがとう!」と、債務者の私も叫んだ。

こうして100万円は右から左へと消えたのだが、べつに悔やむほどのことではなかった。その一件をしおに、私はクスブリから脱出したのである。

たかだかの当籤金が人生を変えることはない。ただし、確かな道しるべではある。

(初出/週刊現代1994年12月24日号)

『勇気凛凛ルリの色』浅田次郎(講談社文庫)

浅田次郎

1951年東京生まれ。1995年『地下鉄(メトロ)に乗って』で第16回吉川英治文学新人賞を受賞。以降、『鉄道員(ぽっぽや)』で1997年に第117回直木賞、2000年『壬生義士伝』で第13回柴田錬三郎賞、2006年『お腹(はら)召しませ』で第1回中央公論文芸賞・第10回司馬遼太郎賞、2008年『中原の虹』で第42回吉川英治文学賞、2010年『終わらざる夏』で第64回毎日出版文化賞、2016年『帰郷』で第43回大佛次郎賞を受賞するなど数々の文学賞に輝く。また旺盛な執筆活動とその功績により、2015年に紫綬褒章を受章、2019年に第67回菊池寛賞を受賞している。他に『プリズンホテル』『天切り松 闇がたり』『蒼穹の昴』のシリーズや『憑神』『赤猫異聞』『一路』『神坐す山の物語』『ブラック オア ホワイト』『わが心のジェニファー』『おもかげ』『長く高い壁 The Great Wall』『大名倒産』『流人道中記』『兵諌』『母の待つ里』など多数の著書がある。

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おとなの週末Web編集部 今井
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