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アラスカを拠点に野生動物や人々の暮らしを撮り続けた写真家・星野道夫(ほしの・みちお)(1952~96年)。2022年は生誕70年の節目となります。東京・恵比寿ガーデンプレイスの東京都写真美術館で開催中の『星野道夫 「悠久の時を旅する」』(〜2023年1月22日)は、極北の自然や人々の営みに優しいまなざしを向けた写真家の足跡をたどる大規模な展覧会。初めて訪れたアラスカの村での生活から、テレビ番組の取材同行中に43歳で急逝する直前までの間に撮られた写真147点が並びます。2022年5月に新たに発見されたカメラやフィルムも初めて展示されるなど写真家の半生を俯瞰できる貴重な機会です。

『ロシア、チュコト半島 1996 年』。星野道夫自身を写した作品

住所不明で何度も戻ってきたアラスカへの手紙

アメリカ・アラスカ州の北西部、北極海とベーリング海の境界に浮かぶサリチェフ島。この小さな島のシシュマレフ村が、星野が半生を費やすことになったアラスカでの“第二の故郷”ともいうべき思い出の地です。

初めて訪れたのは1973年、まだ大学生の時です。アラスカに向かうきっかけとなったのが、一冊の写真集でした。

1972年、19歳だった星野は、東京・神田神保町の古書店街で『ALASKA(アラスカ)』(ナショナル・ジオグラフィック・ソサエティ刊)という海外の写真集を手に取ります。中には、「シシュマレフ」という村で、夕陽が海に沈もうとする瞬間を逆光で撮ったモノクロの空撮写真が載っていました。遠い地の果てのような場所でどうやって人が暮らしているのかと、興味がわき、「行ってみたい」という思いにかられます。

未知の環境や文化には、もともと強い憧れがあったようです。旺盛な好奇心と行動力がわかる興味深いエピソードが残っています。

『アルペングロウ(山頂光)に染まる夕暮れのデナリ (マッキンレー山)デナリ国立公園』

1969年、高校生の時には海洋冒険家・堀江謙一さんの手記『太平洋ひとりぼっち』を読み、アルバイトで資金を貯めて移民船「あるぜんちな丸」で米ロサンゼルスへ。ベトナム反戦運動や公民権運動が盛んで、アメリカは社会が不安定だった時代です。そんな状況下も影響したのでしょう。約2カ月にもわたる一人旅を通じて、世界にはそれぞれ違う価値観を持った人たちが、自分の知らないところで暮らしていることを意識するようになったと言います。

1971年には慶應大学経済学部に入学。探険部に入り、気球で琵琶湖横断や最長飛行記録に挑戦するなど充実した日々を送る中で、出会ったのが写真集『アラスカ』だったのです。思いを実現するため、すぐさま行動に移します。それは、手紙を書くこと。「仕事はなんでもするので滞在させて欲しい」という内容の手紙を書きますが、そもそも、どこに、誰に、送っていいのかがわかりません。手掛かりは地名のみ。そこで、「村長、シシュマレフ、アラスカ」の宛名で何度も出し続けるという、およそ常識外と思われる行動に出ます。

住所不明で何通も戻ってきたそうです。ただ、やがて熱意は、通じました。信じられないことに、半年後の1973年4月に村長から来ても良いという返事が届いたのです。20歳の夏休みに、念願の地へ。村長だったクリフォード・ワイオアナさんの自宅を訪問。約3カ月の滞在中、ニシン漁やシカ猟、女性たちがアザラシを手際よく解体するなど現地の“日常”に触れることで、アザラシの皮や油など何も無駄にせず大切に扱う村人の精神に惹かれていきました。

『ホッキョクグマ カナダ、ハドソン湾』

東京都写真美術館の会場では、入ってすぐのコーナーに、浜辺でアザラシが解体される様子や、干されたアザラシの肉、村長に送った実際の手紙と、その返事などが展示されています。日本に帰国した星野は、どうしたらもう一度アラスカに戻れるかと考え、現地の暮らし、野生動物、文化に強く憧れを抱く過程で、一生の仕事として写真家になることを決意したようです。

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孤独と自然の静けさを表現したカリブー、「カワイイ!」と声を上...
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