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国内外のアーティスト2000人以上にインタビューした音楽評論家の岩田由記夫さんが、とっておきの秘話を交えて、昭和・平成・令和の「音楽の達人たち」の実像に迫ります。中島みゆきの第3回は、1976年のファースト・アルバムが出る前と、深夜ラジオのDJとしても人気を博していた80年代初期の頃のインタビューでの思い出がつづられます。しばしの沈黙の後で語った“共演したい相手”とは、そしてラジオ番組で見せた“よくしゃべるキャラクター”に変われた理由とは。どちらも貴重な証言です。

口数の少ない“少女”

デビュー・アルバム発売前、東京・六本木のホテル一室で逢った中島みゆきは清楚な妖精のようなイメージだった。とにかく口数の少ない少女だった。すでに20歳を超えていたので、少女というのはおかしいかも知れないが、窓辺に置かれていたテーブルの椅子に座っているその姿は、少女そのものに感じられた。ぼくが質問しても返事の多くは“ええ”とか“ハイ”がほとんどだったが、それは彼女がインタビューしていないのか、ぼくの質問のスキルが低かったからだろう。

それでもデビュー前のことについてはポツリポツリと語ってくれた。大学生の時にデビューのチャンスがあったのに、何故そうしなかったのかというぼくの質問には“自分の実力に自信が無かった。もっと言葉を磨きたかった”と答えてくれた。札幌の女子大に入ったが、詩を書いてばかりいたこと、北海道大学にボーイフレンドがいたので、よく北大のキャンパスへ通ったと言っていた。70年安保で北大が荒れていたことも教えてくれた。「時代」という曲が、そのころのことを歌ったことは質問しなくても伝わってきた。

しばしの沈黙のあとに出た名前

初めてのインタビューでいちばん印象に残っているのは、“どんな人と共演、共作、あるいは対談したいですか?”という質問をぼくがした時のことだ。その答えを中島みゆきは、なかなか出せなかった。しばしの沈黙が続いたので“変なことを訊いちゃったかな…?”とぼくは言った。この質問はもう止めようと思った時、“河島英五さん”とほとんど消え入りそうな小声で答えが返ってきた。その時、色白の顔がぽっと赤みがさしていた。それは少女が友人から初恋の人を訊かれて答えた、そんな風景に近かった。あの恥ずかしそうな中島みゆきの顔は今でも覚えている。

そういえば若くして亡くなった河島英五の作風と若き日の中島みゆきの作風は少し似ている。「酒と泪と男と女」(1975年)という河島英五の大ヒット曲は、詩を少し変えれば、中島みゆきの曲であってもおかしくないと思う。河島英五とは彼がプロ・デビューしてから何度も逢ったが、性格も中島みゆきのように一本気な面が感じられた。そして、河島英五は、とてもハンサム、今で言うならイケメンだった。

中島みゆきの名盤の数々

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よくしゃべる人に“変身”...
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