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「勝丸」の歴史~ラーメンを始めるまで

創業者・後藤勝彦は1942(昭和17)年11月11日、8人姉弟の次男として青森県北津軽郡に生まれました。中学卒業後、高校に通うも1年半で退学。その間、映画館のアルバイトや地元で有名だった「秋常食堂(金木町=現在の五所川原市=にあった食堂で現在は閉店)」という煮干しダシのラーメンを出す食堂で半年ほど働きます。後藤さんにとって秋常食堂の煮干しラーメンは原点であり、ここでアルバイトをしなければラーメンの道に進まなかったかもしれません。

その後、東京への憧れがあり、兄を頼って17歳の時に上京。青森では貧しい生活が続いていたこともあり、お菓子に憧れを持っていた後藤さんは、製パン・菓子の工場に就職し、住み込みで働きました。その後、様々な職業を転々とし、2種免許を取得して、タクシー会社へ入社。タクシーの運転手の傍ら、ラーメンを食べ歩き、その頃「ホープ軒」(現・渋谷区千駄ヶ谷)や、「土佐っ子」が屋台(当時・板橋区の下頭橋近くで営業)で繁盛しており、いつか自分も煮干しの味で、ラーメン店をやりたいという気持ちになったようです。

1967(昭和42)年ごろの後藤さん

タクシー運転手をやめて屋台を開業

タクシー会社に勤めていた時に奥様と結婚をしたのですが、「タクシーをやめて屋台をやる」と言ったら、奥さんが猛反対したようです。しかし、後藤さんの意志は固く、1972(昭和47)年に軽トラックを改造した移動式屋台でラーメン店を開業。

軽トラを改造した屋台。写真は1978(昭和53)年頃

最初は以前勤めていたタクシー会社の敷地(港区六本木、現在のテレビ朝日近辺)を借りて営業していたものの、路上駐車が多く、月の1/3程度しか営業が出来なかったようです。しかし、その頑張りを見ていたタクシー会社の隣のビルオーナーに気に入られ、駐車場スペースを借りることが出来、そこからは毎日250杯を売る繁盛店となりました。

屋台でラーメンを作る後藤さん(昭和50年代)

屋台はさらに評判となり、当時TBSの久米宏さんがやっていた番組で「都内三大名物」として紹介され、益々繁盛することとなりました。

1984年、念願の店舗を構える すぐ繁盛店に

繁盛ぶりを見たビルオーナーから「そろそろ屋台じゃなく店を持てばよい」とアドバイスを受け、当時300万あった貯金に200万の借り入れを申請したところ、審査に落ちてしまいました。そこでビルオーナーが保証人になってくれて、無事借り入れができ、念願の店舗を持つこととなりました。

開業は1984(昭和59)年8月7日。場所は港区の魚籃坂(ぎょらんざか)下近く(港区白金1-13)のお店。

1984(昭和59)年。念願の店舗を東京・白金に構える

オープン後、屋台時代のお客さんがたくさん来てくれ、すぐに繁盛店となりました。お店の看板には先に述べましたテレビで紹介された「都内三大名物に選ばれたお店」と書かれています。

白金で開業した3年後、旗の台(品川区旗の台3-11-13)に支店をオープン。この時、三男の勝味さんが手伝うようになり、その後、四男の勝年さん(ラー博店オープン時の店長)、五男の勝久さん(現目黒店の店長)も手伝うようになりました。白金のお店は8年後に立ち退きとなり、1992(平成4年)頃、本店を目黒に移します。

1992(平成4)年に移転した「支那そば勝丸」目黒本店(1993年撮影)
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新横浜ラーメン博物館への出店 「商売としてうまくいくのか…」...
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