今から20数年前、ゴルフファンどころか、まったくゴルフをプレーしない人々までも夢中にさせたエッセイがあった。著者の名は、夏坂健。ゴルフ・エッセイストとしての活動期間は1990年から亡くなった2000年までのわずか10年。俳優で書評家の故児玉清さんは、その訃報に触れたとき、「日本のゴルフ界の巨星が消えた」と慨嘆した。 「自分で打つゴルフ、テレビなどで見るゴルフ、この二つだけではバランスの悪いゴルファーになる。もう一つ大事なのは“読むゴルフ”なのだ」という言葉を残した夏坂さん。その彼が円熟期を迎えた頃に著した珠玉のエッセイ『ナイス・ボギー』を復刻版としてお届けします。第3回は、1960年代、ギネスブックにも載った不世出の天才アマチュアゴルファーが、ある日突然ゴルフ界から姿を消した、驚愕の理由について。
画像ギャラリー第lホール パー5 意のままにならぬゲーム
その3 神様、お戯れはやめて!
伝説のゴルファーがかかった病気
少し前、私はヴェルサイユの鬱蒼たる森に息づく名コースのテラスに座って、35年前に天才と呼ばれた老人の呟きに耳を傾けていた。
彼は英語音痴、私はとくにフランス語音痴、従って会話は小川を漂流する棒切れのようにつっかえ、澱み、ときに小さく挫折もしたが、そこはゲームのエスペラントたるゴルフ談義、程よく通じたから不思議である。私は尋ねた。
「35歳の秋ごろ、あなたの身に何が起こったのか、話してくれませんか?」
「それよりも、なぜいまになって私に興味を持つのかね」
「凄い記録を見つけたからです。
1962年10月に行われた欧州4ヵ国対抗戦の2日目、個人戦に出場したフランスのジャン=ピエール・マレー選手はアウト31、イン31、実に10アンダーの62でホールアウト。コース新、大会新記録で優勝したのは当然としても、さらにアマゴルフ界不世出のスコアとして『ギネス・ワールド』のスポーツ版にも掲載されました。
ところが翌年、不意にゴルフ界から足を洗って、どこかに消えてしまった。一体どこへ行ったのですか? マレーさん」
「ベルギーだ」
「そこで何を?」
「花の栽培をやっていた」
「なぜ急に、ゴルフから逃げだしたのでしょう」
「病気だよ。トップ・イップスになったのさ」
「まさか!」
翁は、苦渋に満ちた声で言った。
「自分でも『まさか!』と思ったよ。ある日突然、ひどいことになった」
ゴルファーが冒される病気の中で最も滑稽、かつ破壊的といわれる奇病患者に出会うとは、思っても見ないことだった。まさに千載一遇のチャンス、ひめやかに囁かれてきた奇病の実態を聞くのにマレー以上の人物はマレだろう。
歴史に名を成す名手たちも苦しんだイップス
単なるイップスについては、すでにご存知の通りである。この奇妙な疾患に対して心理学者は「ショートパット苦手症候群」と命名、全治する方法はないと匙を投げている。
国によっては「ジャークス」「トウィッチ」と呼ぶところもあるが、要するに1メートル前後の短いパットになるほど全身が硬直、ケイレンを起こす場合もある。それもビギナーならいざ知らず、ベン・ホーガン、サム・スニード、アーノルド・パーマーといった名手たちが突如として発病、チョンと打てば入る距離で顔面蒼白の狼狽ぶりを見せるのだ。
多くの学者が研究した結果、これはキーパンチャー、彫金師、文筆家、駅員といった「腕の習慣性」を伴う職業に従事する人だけに見られる神経障害であり、習慣からくる慢性疲労に加えて、失敗に対する不安も金縛りの一因とされる。
むかしは、ベテランになるほど発病率も高いといわれた。ところが1976年、ヨーロピアンツアーに彗星の如く現われた若武者、ベルンハルト・ランガー選手が、いざショートパットに取り掛かる段になると先ほどまでの勢いはどこへやら、モジモジ、ソワソワした挙旬、1メートルの距離から2メートルもオーバーさせたかと思うと、今度は50センチしか進まず、たとえ19歳であってもイップスは容赦なく感染することが証明された。
「私の場合、手首が金縛り状態になって、動かすタイミングさえつかめなかった」(トニー・ジャクリン)
「片手でパッティングするのは、ゲームに対する畏敬の念が足りん、よって500ドルの罰金だと役員は吠え立てたものだ。連中は俺がイップスに泣きながら、仕方なく片手で打っているとは想像もしないだろう」(ボビー・クランベット)
その対策として、サム・スニードはポロ競技からヒントを得たと言うが、かの有名なサイド・サドル型に踏み切った。
パーマーの場合、真似するわけにもいかず、試行錯誤の末に股間からタマを打ち出すスタイルを考案した。ところが、その男性放棄的パフォーマンスに対して女性ファンから非難囂々、あわてて元のスタイルに戻したのはいいとして、一時は深刻な「1メートル恐怖症」に泣いたものである。いまではルールによって、どちらのスタイルも禁止されてしまった。
天空から見えない手が伸びて
「それで、以前から兆候のようなものはあったのですか?」
「兆候といえるかどうか……」
マレー翁は、視線を遠くに向けて記憶をたどる気配だった。
「ゴルファーならば、誰でもトップの位置に無関心ではいられない。ショットの8割がトップで決定されると理解できるレベルになると、スウィングの最大の関心事は頂点の位置に向けられる。私も同様、若いころからノイローゼ気味ではあったが、欧州4ヵ国対抗戦の数ヵ月後、友人とのプレー中に突如として腕が上から降りなくなった」
アドレスの段階で、ボールの位置がしっくりせずに不安感が残ったそうだ。そのままテークバックに移行してトップから切り返そうとした瞬間、なんとしても腕が動かない。
「ウッ! ウッ!」
必死の形相でクラブを引き降ろそうとするが、まるで宙に根が生えたかといぶかるほど、ビクともしない。
「何をしてるんだよ、お前」
「ふざけるのもいい加減にして、早く打てよ」
周囲はゲラゲラ笑う、本人は必死で打とうとする、しかし肝心のクラブは動かない。
「それで、どうしました?」
「不思議なことに、とりあえず仕切り直しをしようと考えた瞬間、フッと力が抜けてクラブが降りてきた」
「その気持ちでスウィングしたら、うまくいきませんかねぇ」
「もちろん、やってみたよ。しかし駄目だった。素振りと実際とでは力を抜いたつもりでも大違い、そんなことはビギナーでも先刻ご承知だ。ボールを打つ意志が少しでもあると、その瞬間ギクッとクラブが停止して宙に止まったまま、もう動きゃしない」
最初は冗談だと思っていた仲間も、彼が脂汗たらしてクラブの引き降ろしに懸命だとわかると、しばし固唾(かたず)をのんで見守っていたが、やがて同じ恰好をまじえての大声援が始まった。
「そらっ、頑張れ、もっと引け!」
よそから見たならば、これほど滑稽な光景も稀だろう。しかし、やってる本人は死にもの狂いだった。
その日は、筋肉のどこかが故障した程度にしか考えなかったが、翌日も、またその翌日も同じことのくり返しだった。一週間目には泣きながらダウンスウィングに移ろうと頑張り続けたものの、事態は悪化するばかり、テークバックの始動までが思うようにいかなくなった。
彼には、天空から見えない手が伸びてスウィングの邪魔をしているように思えてならなかった。ついにたまらず、彼は大空に向かって叫んだ。
「神様、お戯れはやめてください!」
トップ・イップスも、やはり心因性の運動障害だと精神科医は言ったが、診断は解決のタシにもならず、彼は好きなゴルフから見放されてしまった。
「15年ほど前、フランスに戻って近くのコースの植木番をやっとるが、ゴルフ場はいいねぇ」
「その後、振ってみましたか?」
「いや、あれは神のご意志によって行われた裏返しの奇蹟。10アンダーの思い出だけで十分満足だよ」
(本文は、2000年5月15日刊『ナイス・ボギー』講談社文庫からの抜粋です)
夏坂健
1934年、横浜市生まれ。2000年1月19日逝去。共同通信記者、月刊ペン編集長を経て、作家活動に入る。食、ゴルフのエッセイ、ノンフィクション、翻訳に多くの名著を残した。毎年フランスで開催される「ゴルフ・サミット」に唯一アジアから招聘された。また、トップ・アマチュア・ゴルファーとしても活躍した。著書に、『ゴルファーを笑え!』『地球ゴルフ倶楽部』『ゴルフを以って人を観ん』『ゴルフの神様』『ゴルフの処方箋』『美食・大食家びっくり事典』など多数。
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