第1章 絶命するまで啖(くら)いつづけた男たち
肥満が何だ、栄養がどうした。
美味なるものを死ぬほど食べる。
これが生きることの悦楽の極致。
古今東西の食の殉教者たちの垂涎のものがたり。
(8)モンスレーの遭遇した恐怖の死に至る食事の真髄
昔のフランス料理のフル・コースといえばその量はベラ棒なものだった。それを決闘の道具に選ぶとは前代未聞の珍事にはちがいない。
♣ああ、なんたる美味! このソースなら親父を食っちまうこともできるだろう――グリモ・ド・ラ・レニエール
シャルル・モンスレー(1825~1888)が世にも残酷な光景に遭遇したのは、ナポレオンの第2帝政時代、パリの《カフェ・アングレ》に好物のフォア・グラのパテを食べに入ったときだった。
二人のまだ年若い貴族が、中央のテーブルをはさんでにらみ合っていた。
「何事かね?」
モンスレーの問いに給仕頭が小声で答えた。
「これから決闘がはじまるところでございます」
どうやら喧嘩の原因は些細なことだったらしいが、メンツを重んじる上流社会の掟で、決闘によって紛争に決着をつけることになったのだという。
「正気かね? ピストルをぶっ放すなら外でやるようにいいたまえ」
「それが、ここでなければできない決闘の方法をお選びになりました」
給仕頭の説明を聞いて、ようやくモンスレーにもこれから始まる果たし合いが前代未聞の珍挙だということがわかってきた。つまり、どちらも同じペースで食って食って食いまくり、片方がひっくり返るか、口の動きが止まるか、フォークをポットリ落とすまで制限時間なしの一本勝負、晩餐で果たし合いをやろうというわけだった。
モンスレーといえば美食の作家、『詩的料理女』『美食術』『食道楽年鑑』などで知られているが、食の大家だけに、一見ユーモラスなこの決闘が相当な危険に満ち満ちていることを直感したと『食道楽年鑑』に書いている。牛飲馬食は、ある一線を越えたときから死に直面するからだ。
介添人は、成りゆきが監視できるように脇のテーブルに着席した。
「さて、ご両人!」
この言葉を合図に、死の晩餐レースのスタートが切られた。時刻は夕方の6時、食事をはじめるにはいい時間だった。
すさまじい量の食事が運ばれてきた。一度に3人前を平らげるという申し合わせだった。
スープが3皿、平目や鮭の魚料理、こんがり焼けた鶏、肉の煮込み、パテにパイ、温野菜、どれもこれも3皿ずつ、デザートのこってりと甘い桃の蜂蜜煮とコーヒーまでが3人前だった。フル・コースを決闘者たちは黙々と、かつ果敢に胃袋に納めて、まず1回戦が終わった。
「やり直しだ! どんどん持ってこい」
介添人は調理場に向かって叫んだ。メニューは変わったが、量だけは相変わらず3人前だった。鴨、鳩、仔牛肉、鱒、牡蠣、デザート、その間にワインとリキュールが同じように注がれ飲み干されていった。
2回戦が終わったところで、介添人は双方の顔色をうかがいながらいった。
「どうかな、ご両人。ここらで上着をとってベルトをゆるめ、一服しながら和議についてひとつ冷静に話し合ってみようじゃないか」
この言葉に2人の貴族は色をなした。
「断じてことわる!」
「毛頭応ずる気はない!」
「やれ、やれ」
と介添人は首をふり、再び調理場に向かって怒鳴った。
「早くせい! 晩メシはまだ当分続くぞ」