浅田次郎の名エッセイ

浅田次郎が30年ぶりに”大邂逅”した級友たちに見た「本物のエリート」の意味

自らを選良だとは信じぬ本物の男たち 級友たちの自己紹介を聞きながら、M先生の「完全無欠のクラス」ぶりを思い知った。 16名の参加者中、東大に進学した者が4名、さらに医者が4名である。その他の級友もみなそれぞれに商社や銀行…

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バブル経済崩壊、阪神・淡路大震災、オウム真理教による地下鉄サリン事件など、激動の時代だった1990年代。そんな時代を、浅田次郎さんがあくまで庶民の目、ローアングルから切り取ったエッセイ「勇気凛凛ルリの色」は、30年近い時を経てもまったく古びていない。今でもおおいに笑い怒り哀しみ泣くことができる。また、読めば、あの頃と何が変わり、変わっていないのか明確に浮かび上がってくる。

この平成の名エッセイのベストセレクションをお送りする連載の第72回は「大邂逅について」。

30年ぶりに出席したクラス会

へんてこな造語をタイトルに使用する。

会いたくないやつにバッタリと出くわすことを「遭遇」と言い、会いたかったやつにバッタリと出会うことを「邂逅」と言う。

そこで、会いたくないやつらにバタバタと出くわすことを「大遭遇」、会いたかったやつらにバタバタと出会うことを「大邂逅」と名付ける。

都会の用語としてはけっこう流行しそうなので、もしかしたら来年度版の『イミダス』『知恵蔵』『現代用語の基礎知識』等には載るかもしれない。

「大遭遇」に関してはイヤな思い出がある。その昔、度胸千両的人生を送っていたころ、業界の団体旅行先であろうことか所轄警察署の旅行団とハチ合わせをしてしまったことがあった。幹事であった私はフスマ1枚へだてた宴会場で冷汗を流しながら、宇宙人の団体と隣合わせた方がなんぼかマシだと思ったものである。

幸い大事に至らずに済んだが、あんまりおかしい体験であったので、のちに小説化した(徳間書店刊『プリズンホテル秋』および幻冬舎アウトロー文庫刊『極道放浪記2』に収録)。

さて、さる10月12日、わが母校駒場東邦中学の第1学年次クラス会が開かれた。

入学年度は昭和39年。東京オリンピックの年であるから、およそ30年ぶりの大邂逅ということになる。

かつて「邂逅について」の項で登場したS出版社のO課長が、「なんと浅田が生きていた」というコンセプトのもとに恩師旧友に呼びかけてくれた。

私は今も文壇の問題児であるが、30年前も学校の問題児であった。中高一貫教育の進学校でさんざっぱら悪事を働き、学年の偏差値を数ポイントも落としたあげく、高校1年のとき忽然と姿をくらましたのである。

そうした事情もさることながら、なにしろ30年ぶりのクラス会である。30年といえば口で言うのは簡単だが、仮に昭和39年のその年から30年をさかのぼれば、満洲国の帝政実施とかワシントン軍縮条約廃棄の昭和9年に至るのであるから、まさしく気の遠くなるような歳月である。

当然のことであるが、紅顔の美少年たちはひとり残らず厚顔のオヤジになっていた。

誰が誰だかサッパリわからん。2人の先生のお顔だけがすぐにそうと知れたのは、当時先生方はすでに大人だったからであろう。

中学1年のときの担任M先生は、開口一番こうおっしゃられた。

「あれから30年教師をやってきたが、このクラスが一番ラクだった。ナゼだかわかるか。おまえを除き、完全無欠のクラスだったからだ。つまり生徒はおまえひとりみたいなものだった。ハッハッハッ!」

「……はあ……さようでしたか」

「今でも人前でパンツを脱いだりするのか」

「えっ……」

何でも私は、授業中にパンツを脱ぎ捨てて教室を恐慌に陥れるクセがあったのだそうだ。級友たちはみなそのことを思い出してゲラゲラと笑ったが、ハテ本人だけ記憶にないのはどうしたことであろうか。

もうひとりのK先生は古文の担当で、私がいずこへともなく姿をくらました高校1年時のクラス担任でいらした。

つまり最も苦労をおかけした先生であるが、私からするとまこと恩師と呼ぶにふさわしい。4年間にわたって、私はK先生から古典文学の楽しさを教わった。学校の成績とはまったく結びつかなかったが、以来30年、古典文学はかたときも机上から離れたことはない。K先生の薫陶がなければ、『蒼穹の昴』も『天切り松 闇がたり』も書けはしなかった。

英語のM先生と古文のK先生は相変らずかたや豪放磊落(らいらく)、かたや沈着冷静の好対照であられた。

「まったく手のかからないクラスだったんだよなあ、おまえを除いて」

と、M先生は私の掌(て)を握りながら、またもやしみじみとおっしゃった。授業中にパンツを脱ぎ捨てるほかに、もっと怖ろしいこともしていたのであろう。まったく記憶にはないのだが。

自らを選良だとは信じぬ本物の男たち

級友たちの自己紹介を聞きながら、M先生の「完全無欠のクラス」ぶりを思い知った。

16名の参加者中、東大に進学した者が4名、さらに医者が4名である。その他の級友もみなそれぞれに商社や銀行や研究室で、めざましい出世をとげていた。なるほど手のかからぬクラスだったはずである。

私は4年の間、いったい何をしていたのだろうと考えた。

勉強をしたという記憶は、まったくと言ってよいほどない。学園生活の思い出といえば図書館に通いつめたことと、吹奏楽部でラッパを吹いていたことぐらいだ。

図書館の蔵書は充実していた。ことに著名作家の全集が揃っており、最も多感な時期に谷崎潤一郎や森鷗外や折口信夫を細密に読みこむことができた私は幸福であったと思う。そうした環境は、おそらく志よりも興味よりも、私の未来を決定づけた。

それにしても、人間の記憶とはまことにいいかげんなものである。会場に入ったときには誰が誰やらまったく見当がつかず、渡された名簿の氏名すらも思い出せなかったのであるが、ものの30分後にははるかな時間を越えて、昭和39年の教室に座っているような気分になった。

よくよく見れば、実は先生と同様に、誰も変わってはいないのである。顔形もしゃべりかたもちょっとした癖も、みな30年前のままなのであった。

級友のひとりが、私の顔をしげしげと見つめながら言った。

「おまえ、ぜんぜん変わってないな」

ちょっとビックリした。なぜなら、絵に描いたようなエリート人生を歩んできた友人たちにひき較べ、私の30年はまともではなかったから。

「……そうかな」

「そうだよ。頭がハゲて、メガネをかけただけじゃないか。どこも変わってないよ」

思わず目頭が熱くなった。彼が30年前にも白皙(はくせき)の医者のような顔をしていたように、かつての私もまた小説家のような顔をしていたのであろうか。

同時にこうも思った。医者にも教授にも商社マンにも実業家にも、やはり人には言えぬ30年間の労苦があったのだろう、と。

彼らが生れついてのエリートだったのではない。彼らはきっとエリートたらんとするものの矜(ほこり)にかけて、さまざまの艱難(かんなん)を乗り越え、本物のエリートになったのだ、と。

何だか自分の体が萎(な)えしぼんで行くような気がした。小説家になりたい一心で、半生の経験を売り物にしてきた自分が恥ずかしかった。

本物は決して衒(てら)わぬものだということも知った。彼らは一様に、自分が成功者だとは思っていない。みんなすごいな、と誰もが言っていた。

真の努力をした者は己れの努力の至らなさを知る。だからその結果、どれほどの名望を得ようともそれを容易に信じようとはしない。自分を取り巻く人々のすべてが、自分よりすぐれた者だと考えてしまう。

そんな15名の級友は、ひとりひとりが本物の男であった。

ひとときの宴が終わり、雨の路上で別れるとき、それまでひとことも言葉を交わさなかった友人が、私の肩を抱き寄せて言った。

「おまえ、どこ行ってたんだよ。心配してたんだぞ」

ごめんな、と言うほかに言葉は見つからなかった。友人たちは志を達した私を祝福してくれたわけではなかったのだ。私が教室に戻ってきたことを、心のそこから喜んでくれたのだ。

どうしても小説家になりたかったから、と言いかけて、私は口をつぐんだ。それが仮に私の彷徨(ほうこう)の大義であったにせよ、30年前の感情を昨日の痛恨事のように思い出してくれる彼らの友情を、私はあの日、裏切った。

雨の路上を振り返った。15人の、決して自らを選良だとは信じぬ本物の男たちが、もろ手を挙げて私を見送っていた。

(初出/週刊現代1996年11月23日号)

『勇気凛凛ルリの色』浅田次郎(講談社文庫)

浅田次郎

1951年東京生まれ。1995年『地下鉄(メトロ)に乗って』で第16回吉川英治文学新人賞を受賞。以降、『鉄道員(ぽっぽや)』で1997年に第117回直木賞、2000年『壬生義士伝』で第13回柴田錬三郎賞、2006年『お腹(はら)召しませ』で第1回中央公論文芸賞・第10回司馬遼太郎賞、2008年『中原の虹』で第42回吉川英治文学賞、2010年『終わらざる夏』で第64回毎日出版文化賞、2016年『帰郷』で第43回大佛次郎賞を受賞するなど数々の文学賞に輝く。また旺盛な執筆活動とその功績により、2015年に紫綬褒章を受章、2019年に第67回菊池寛賞を受賞している。他に『きんぴか』『プリズンホテル』『天切り松 闇がたり』『蒼穹の昴』のシリーズや『日輪の遺産』『憑神』『赤猫異聞』『一路』『神坐す山の物語』『ブラック オア ホワイト』『わが心のジェニファー』『おもかげ』『長く高い壁 The Great Wall』『大名倒産』『流人道中記』『兵諌』『母の待つ里』など多数の著書がある。

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