新宿騒乱、荒木テーブル…各店主が見てきた新宿の移り変わり
実はワタクシ新宿区民です。なんだけど、いまだに新宿ってどんな街かイマイチピンときていない。「ゴジラのビルがある」も「三大繁華街の歌舞伎町がある」も間違っちゃいないが今ひとつ解像度が粗い気がする。まあ学生時代含めて10年かそこらしかこの街を見ていないのだからそりゃそうか。じゃあここでずっと街を見てきた老舗は、どんな新宿を見てきたんだろう?
「今じゃ新宿は観光地化してるけど、もっと危ない街だった。昭和真っ只中の頃は何が起きてもおかしくないような緊張感があったね。実際いろいろと起きていたし」。そう話すのは『王ろじ』2代目店主・来住野正明さんだ。生まれも育ちも新宿で、1979年に20歳で店に入る前から昭和期の新宿を見てきた。緊張感があったとは!?
「1968年に『新宿騒乱』という、ベトナム戦争に反発した学生が反戦デーに合わせて起こした暴動があったんです。駅が学生に占拠されてすごかったですよ。南口は焼かれるし、電車の窓ガラスは割られるし。僕は店の2階にいたんだけど、催涙弾が風にのってきて目がもう痛くて痛くて。あとは70年代は街中での喧嘩も多かった。特にあるふたつの高校が天敵同士で激しくやり合っていたね。その時代は暴走族全盛期でもあったから、新宿通りが土曜の夜になると暴走族で埋め尽くされるんですよ。そういう時代でしたね」。
一方で、『小ばやし』の4代目店主・古幡洋子さんは反対の印象を伝えてくれた。「私が子供の頃、1960年代後半の新宿は普通の商店街という感じでした。店の前が舗装もされていなくて、近所の八百屋さんやコーヒー屋さんなどの子供がそこらへんで遊んでいましたね」と語る。1969年頃から新宿に出入りし、ジャズ喫茶や喫茶店に通っていた『千草』3代目店主の杉本茂さんは、「今よりゆったりラフな雰囲気があった」とも言う。
実際話を聞いていると、新宿には剣呑な繁華街という面以外に文化的な街としての側面があったようだ。「今でも新宿には音楽を聴けるバーなんかが多くあるけど、あの頃はもっと多かった。特に『DIG』ができた頃は新宿にジャズ喫茶が溢れていましたね」と話すのは『DUG』の2代目店主・中平塁さん。
『DIG』は塁さんの父で初代店主の中平穂積さんが1961年アルタ裏のビルに開いたジャズ喫茶。人気を集め、ジャズ喫茶ブームを盛り上げた。当時の『DIG』には芸術家の卵を引き寄せるような雰囲気があり、自分の作品を店に飾ってくれと持ち込む人が後を経たなかったそう。「あそこのテーブル席にはよく写真家の荒木経惟さんが座っていてね。いつも4、5人で来て打ち合わせをしていたから”荒木テーブル”って呼んでいたんです」というように、同店には著名人も多く訪れていた。
『DUG』だけじゃない、『王ろじ』には作家の柴田錬三郎や俳優の三國連太郎が、『小ばやし』には歌手の小坂一也が常連で、『千草』は演劇人の溜まり場だった。考えてみれば、昔から新宿には『紀伊国屋書店』があって、レコード屋も、映画館も、寄席も、劇場もあった。もとより文化に根ざして発展してきた街でもあったのだ。もちろん街の様子は時代とともに変わっている。それでも敢えてこう言いたい気分だ。新宿って案外文化的な街なんだよ、と。
撮影/小島 昇、取材/藤沢緑彩
※2023年9月号発売時点の情報です。
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