「ゴルフの鉄人」ベン・ホーガン 素晴らしいことだが、先の2人と同様、「ゴルフの鉄人」と呼ばれるベン・ホーガンもいまなおテキサスに健在である。彼が生まれたのは8月13日、鉄工所で働く職人の次男坊だが、彼が9歳のときに父親が…
画像ギャラリー今から20数年前、ゴルフファンどころか、まったくゴルフをプレーしない人々までも夢中にさせたエッセイがあった。著者の名は、夏坂健。「自分で打つゴルフ、テレビなどで見るゴルフ、この二つだけではバランスの悪いゴルファーになる。もう一つ大事なのは“読むゴルフ”なのだ」という言葉を残した夏坂さん。その彼が円熟期を迎えた頃に著した珠玉のエッセイ『ナイス・ボギー』を復刻版としてお届けします。
夏坂健の読むゴルフ その31 ゴルフ界の不思議な輪廻
年間19勝をあげたバイロン・ネルソン
ワインにも豊潤な当たり年があるように、「1912年」はアメリカのゴルフ界にとって最高の当たり年だった。
誕生順に紹介すると、まず2月4日にテキサス州ワクサヘチーの小さな民家で、バイロン・ネルソンが産声をあげた。のちに判明したことだが、生まれつき血友病に似て血が固まらない体質だった。
12歳のとき、健康増進が目的でゴルフを始めると、たちまち汲めども尽きぬ魔力のゲームにのめり込み、ひまさえあれば居間の絨毯からソファー越え、彼方の紙屑籠にアプローチを打ち込んでいた。この乱暴を笑って許した親も大したものである。17歳からアマ競技に出場すると、翌年にはサウスウエスト・アマ選手権に優勝、すっかり自信をつけて20歳になった1932年、プロに転向する。
彼のゴルフ人生は、1937年から46年までの10年間にすべてが集中する。まず37年のマスターズでは、最終日の11番が終わった時点で首位のR・ガルダールに4打の差をつけられていた。奇蹟の序曲が12番のロングパット、およそ15メートルのスネークラインを見事に沈めてバーディを奪うと、14番でもバーディ、15番では2オンに成功してイーグルまでやってのけた。この逆転優勝によってトッププロの座を確保すると、第二次大戦の余波でゲーム数が減少する中、全米オープン、全米プロ、マスターズも含めて26勝の快進撃。とくに凄かったのが45年である。
この年の3月8日、マイアミで優勝したのが皮切り、8月4日に終了したカナダ・オープンまで11試合連続優勝の快挙。さらに120ラウンドの平均ストロークが「68・33」のツアー新記録。ブロードムアでの競技では「62・68・63・66」、トータル「259」、実に29アンダーの世界新記録樹立。加えて1945年には年間優勝回数19回、3年間にわたって連続116試合、賞金を得ている。ベン・ホーガンでさえ56回で中断したのだから、途方もない記録といえる。
1946年には、「この試合に勝って引退したい」と、全米プロに意欲を燃やしたが体調すぐれず、ベスト4に残るのが精一杯だった。引退後は指導者として評価が高まるばかり。とくにアップライトなワンピース・スウィングと、左サイドのリードで膝を柔らかくスライドさせる近代的打法は「アメリカの宝物」と呼ばれ、トム・ワトソンをはじめ多くの若者が弟子入りした。
当然のこと、ここまで奥義を極めた人物だけに、温和な表情とは裏腹に寸鉄人を刺す言葉がボソッと飛びだす。
「言い訳は、進歩の最大の敵だ」
「すぐにクサる人がいる。結局、彼は実社会でも成功しないだろう」
「2種類のゴルファーがいる。生活のために収入を得る者と、楽しみのために支出する者だ。ゆえにアマがプロの真似をするのは理に反する」
「いいゴルファーは、フィニッシュでよろけない」
歴代最多ツアー84勝を誇るサム・スニード
サム・スニードが生まれたのは5月27日、バージニア州アシュウッドに住むホテルのボイラー係、ハリー・スニードと妻のローラがもうけた6人の子の1人である。後世の史書は、恐らくスニードを次のように紹介するだろう。
「20世紀最高のスウィンガー。ナチュラル・ボーン(生まれつきの)・ゴルファーとして活躍、ツアー84勝の大記録を残す」
その振りの滑らかなこと、滅多に人を褒めないベン・ホーガンでさえ、
「彼の流麗なスウィングは、誰にも真似ができない。ゴルフにおける芸術だろうね」
と、脱帽したものである。とくに師匠がいたわけでもないのに、プロショップの助手として働きながらゴルフを覚えると、ウエスト・バージニアの競技会に出掛けていって、いきなり2日目のスコアが「61」(!)。この快事に注目したのがトーマス・ボズウェルである。彼は『Strokes of Genius』の中で次のように書いた。
「天才スニードによると、ゴルフなんてビリヤード、ダーツよりずっとやさしいそうだ。3打目と4打目だけきっちり打っておけば、あとは散歩みたいなものだと彼は言った」
25歳のときプロに転向する。と、その緒戦、オークランド・オープンで「69・65・69・67」の18アンダー、いきなり優勝してみせた。しかし、バイロン・ネルソンがツアー11連勝など、途方もない話題を独占したため、ネルソンが引退してからの約10年間が彼の黄金期といえる。
彼のストローハットは有名だが、それ以上に「全米オープンから見放された男」として球史に残るだろう。1939年の全米最終ホール、ボギーの「5」でも優勝する局面で狂気の「8」とは、誰もが口をあんぐりだった。これがケチのつき始め、以来どうしても全米オープンだけは勝てなかったが、プロとしては出色の一語に尽きる。47歳の年にホワイト・サルファ・スプリングスで「59」のスコアを達成すると、53歳の年、グリーンズボロでツァー最年長優勝をやってのけ、62歳の年に全米プロ選手権堂々の3位、67歳の年に出場したクォードシティ・オープンでは、「66」のツアー史上初、エージシュートまで披露した。これほどの名選手だけに、分泌される言葉にも含蓄が色濃く宿るのである。
「打ちに行ってはいけない。しっかり大きく振り抜くだけ」
「トシをとったら、いいスウィングしか役に立たない」
「ゴルフの鉄人」ベン・ホーガン
素晴らしいことだが、先の2人と同様、「ゴルフの鉄人」と呼ばれるベン・ホーガンもいまなおテキサスに健在である。彼が生まれたのは8月13日、鉄工所で働く職人の次男坊だが、彼が9歳のときに父親が自殺して、一家は困窮を極めることになる。11歳のとき、キャディとして日銭稼業の道に入ってゴルフを覚えると、1931年、ためらいながらツアー競技に出場する。
名著『モダン・ゴルフ』が物語るように、当初から彼はスウィングに科学と合理性を持ち込み、ミクロの誤差に対しても容赦しない求道的ゴルフに終始した。ツアー62勝のグランド・スラマーとして、というよりも、1949年に交通事故で瀕死の重傷を負いながら奇蹟的にカムバック、映画「フォロー・ザ・サン」のモデルになったことで知られる。
とにかく無口で不愛想。しかし、筋だけは絶対に曲げない男でもある。1948年の全米プロ選手権3日目は、猛烈に暑い日だった。彼と一緒に回っていた選手が悲鳴まじりに、
「畜生! 暑くてゴルフにならん」
それを聞いた次の瞬間、キッと振り返って言った。
「暑いのは、きみだけか!」
どこかのプロに聞かせてやりたい話である。暑さ、準備不足をメジャー落選の言い訳に使うなんて、職業的意識が低すぎて情ない話だ。
さて、不思議なことに、アメリカの「1912年」とほぼ同じ現象がイギリスでも発生していた。1870年の2月から翌年の3月にかけて、いわゆる「ゴルフ三巨人」と呼ばれるハリー・バードン、J・H・テイラー、ジェームズ・ブレードが相次いで誕生、この3人で実に16回も全英オープンを制している。これはもう占星術の範疇に入る出来事だろう。残念ながら、わが国に輪廻の痕跡は見当たらない。
(本文は、2000年5月15日刊『ナイス・ボギー』講談社文庫からの抜粋です)
夏坂健
1936年、横浜市生まれ。2000年1月19日逝去。共同通信記者、月刊ペン編集長を経て、作家活動に入る。食、ゴルフのエッセイ、ノンフィクション、翻訳に多くの名著を残した。毎年フランスで開催される「ゴルフ・サミット」に唯一アジアから招聘された。また、トップ・アマチュア・ゴルファーとしても活躍した。著書に、『ゴルファーを笑え!』『地球ゴルフ倶楽部』『ゴルフを以って人を観ん』『ゴルフの神様』『ゴルフの処方箋』『美食・大食家びっくり事典』など多数。
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