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蜂蜜を使ったアイスクリーム店が1年後はラーメン店に

戦後の混沌期、初代・加藤枝直さんは当時としては珍しい蜂蜜を使ったアイスクリーム店を昭和21年に開業。

創業者の加藤枝直さんと奥様

屋号の「蜂屋」はその蜂蜜の「蜂」に由来しています。そして、アイスクリーム店を営業する傍ら、近所の日本蕎麦屋店から「中華そばという食べ物がある」ことを聞きつけました。好奇心の強い枝直氏は全くの独学で特徴的な風味を持つラーメンを作り上げ、昭和22年12月8日に、アイスクリーム店「蜂屋」から、ラーメン店として生まれ変わりました。

昭和22年当時の店舗。看板にソフトクリームの文字が

「巨人・大鵬・卵焼き」ではない!昭和30年代、旭川の流行語は「祭・映画・蜂屋」

そしてそのラーメンは爆発的な人気を呼び、昭和30年代に入ると「休日には映画を見てから蜂屋でラーメンを食べる」というスタイルが、旭川及び周辺町村の「休日の過ごし方」として定着するほどまでになりました。

当時旭川にあった映画館のチラシ

昭和36年になると「巨人・大鵬・卵焼き」が流行語となりましたが、その頃旭川では「祭・映画・蜂屋」という言葉が生まれ、一種の流行語にまでなるほど蜂屋の人気は凄かったのです。その一例として、蜂屋主催の招待旅行が催されるなど、旭川においてその人気は不動の存在であることを物語っています。

タイトルには「第4回恒例 ラーメン蜂屋 登別温泉御招待抽選会」と書かれています

初代店主が交通事故に、昭和47年に二代目がお店へ

こうして順風満帆だった蜂屋ですが、突然大きな事件が起きます。それは東京オリンピックが開催された昭和39年。初代・枝直さんが交通事故にあい、記憶喪失となったのです。

初代のみが知る一部のレシピは記憶喪失によって闇に包まれてしまいます。この当時二代目・加藤直純さんはまだ15歳でした。

蜂屋二代目の加藤直純さん(昭和50年撮影)

直純さんは13歳から蜂屋の手伝いをはじめ、大学時代は旭川を離れ、卒業した昭和47年に蜂屋で正式に働くこととなりました。

直純さん曰く「私は父のように何か新しいことを生み出すというよりも、ひたすら父が築き上げた歴史とお客様を守ってきました。父が偉大だったこともあり、守るということも本当に大変でした。おかげさまで父の代から衰退することもなく、常に多くのお客様にお越しいただけたことは自分の自信にもつながりました」とのこと。

今もなお繁盛を続けているのは、二代目が初代の精神を受け継ぎ、絶え間ない苦労・挑戦によって成しえたものだと思います。

ラー博へ1999年に出店、誘致交渉は91年から

蜂屋さんがラー博に出店したのは1999年。しかし、私たちは1991年に初めて蜂屋さんを訪れ、それまでラーメンに抱いていた概念を打ち破る衝撃を受け、誘致交渉を始めました。

設立趣旨にはご理解いただいたものの、人員面や特殊厨房設備などの問題もあり、幾度となく通うも1994年の開業時の出店はかないませんでした。

その後も足しげく通う中、91年の交渉時にはまだ小学生だった長男の信晶さんが、ちょうど高校を卒業して大学に進学するタイミングに訪れた際、信晶さんが「ラー博でやってみたい」という想いから、とんとん拍子で出店が実現しました。

二代目直純さん(写真左)と信晶さん(写真右)2005年撮影

蜂屋さんが出店するタイミングで、94年の開業時から営業していた居酒屋「居残りや雄蔵」を閉め、ラーメン店が8店舗から9店舗になりました。誘致交渉8年の末、念願の出店となりました。

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ラーメン界のエジソン!蜂屋が生み出した様々な功績...
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おとなの週末Web編集部
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