長さ40mの巨大な土橋を発見 慶長20(1615)年に出された一国一城令により、二条城と伏見城の併存が難しくなり、伏見城は元和9(1623)年に廃城とされました。天守は二条城に(後に落雷で焼失)、唐門は西本願寺に移される…
画像ギャラリー『その時歴史が動いた』や『連想ゲーム』などNHKの数々の人気番組で司会を務めた元NHK理事待遇アナウンサーの松平定知さんは、大の“城好き”で有名です。2012年8月からは車雑誌「ベストカー」に月1回、全国各地の55のお城を紹介する記事を連載。20年には『一城一話55の物語 戦国の名将、敗将、女たちに学ぶ』(講談社ビーシー/講談社)として出版されました。「47都道府県の名城にまつわる泣ける話、ためになる話、怖い話」が詰まった充実の一冊です。「おとなの週末Web」では、この連載を特別に公開します。旗本の末裔で、NHK時代に「殿」の愛称で慕われた松平さんの妙趣に富んだ歴史のお話をお楽しみください。
豊臣秀吉の“隠居城”
室町時代と徳川時代の間を安土桃山時代といいます。これは安土に本拠地を置いた信長と、伏見城が居城だった秀吉が政治の中心だった時代をいいますが、なぜ桃山かといえば、江戸時代伏見城跡に桃が植えられ、当地を桃山と読んだことにちなんでいます。
伏見城は文禄元(1592)年、秀吉が隠居城として建設を始めました。当時はこのあたりは観月の名所として知られ、指月と呼ばれていました。当初秀吉は屋敷のようなものを作ろうとしていたようですが、文禄2(1593)年に秀頼が生まれたため、大坂城を譲ることにしました。それにともなって伏見城は大改築が行われ、文禄5(1596)年に完成します。こちらは伏見指月(しげつ)城と呼ばれます。
慶長の大地震で倒壊
しかしその直後、慶長の大地震で天守など多くが倒壊してしまいます。推定されるマグニチュードは7・5。死者は城内だけで数百名、東寺や天竜寺も倒壊し、死者は合計1000名近かったという記述もあります。
秀吉は、天正13(1586)年に起きた天正大地震を経験していることから、伏見城築城にあたっては、「なまつ大事」と指示を出しています。「なまつ」はナマズのことで、地震対策しろよという意味です。これが、地震とナマズを結びつけた最古の記述といわれます。
また、このときの有名なエピソードで、歌舞伎にもなった『地震加藤』があります。加藤清正は朝鮮出兵で活躍しますが、石田三成の讒言(ざんげん)から秀吉の不興を買い、閉門中の身でありました。そんな身を顧みることなく伏見城に駆けつけ、おぶって秀吉を救出し、秀吉の許しを得たという話です。実話ではないとされますが、加藤清正らしい逸話として現在に伝わっています。
新たに築城「木幡山伏見城」
地震の後、伏見城は、現在明治天皇陵がある木幡山(こはたやま)に新たに築城されます。慶長2(1597)年に完成したこちらの城は、木幡山伏見城と呼ばれます。伏見指月城からはもちろん、聚楽第(じゅらくだい)や秀吉の側室・茶々に産所として与えた淀城から、天守や櫓が移築されました。
外周をぐるりと石垣で囲んだ惣構(そうがまえ)の本格的な城で、豪壮な石垣に加えて茶亭や秀吉の邸宅があったとされ、伏見は大いに栄えます。
五大老、五奉行に「秀頼を頼む」
秀吉は慶長2年に伏見城に移ります。そして翌慶長3(1598)年から病に伏せがちとなり、死期が近づくと、五大老、五奉行を枕元に呼んで「秀頼を頼む」と言い、家康は秀吉の手を取って、「太閤殿下のご恩は忘れません。この家康にお任せください」と言ったとされます。そして8月18日伏見城で没します。
秀吉の死の翌年、盟友だった前田利家も亡くなり、徳川家康の力が抜きん出るかたちになります。いっぽう会津では五大老のひとりだった上杉景勝が越後から移封したため、領内の城や道路の改修を始めます。それを謀反の準備と曲解した家康は景勝に上洛して、申し開きをするよう命じました。謀反の気のなかった景勝の家老・直江兼続は「それはありませぬ」という手紙を書いて上洛要請を拒否します。世に言う「直江状」です。その直江状に激怒した家康はこの時「会津征伐」を決意した、というのですが……。しかし、私はこれは違う、と思います。家康の狙いは石田三成を蜂起させることにあったと思うのです。三成も家康も、言うことは同じ。「秀頼様を全力でお助け申し上げる」……。これでは戦う、大義名分がない。イクサはできません。
家康は自分が上杉討伐のため京の都を離れれば、三成はそれを機に兵を挙げ、上杉と三成で家康を挟撃すれば勝てる!と思うに違いない。つまり、三成が先に兵を挙げれば「売られたケンカは受けねばならぬ」と、イクサを正当にできる大義名分ができると家康は思ったのではなかったでしょうか。三成は家康の目論見どおり挙兵宣言します。シメシメ、と家康はニンマリしたと、私は思います。
「伏見城の戦い」で血に染まった床板は、天井に
関ヶ原の戦いは慶長5(1600)年9月15日に行われますが、その前哨戦として7月18日から8月1日まで「伏見城の戦い」が行われます。
家康は三成が動くことを見越して伏見城を三河以来の側近・鳥居元忠に預けます。元忠は1800人ばかりの兵力で城内に立てこもり、小早川秀秋、島津義弘あわせて4万人の軍勢を前に善戦、13日間の攻防の末に元忠は討ち死にします。
その忠臣としての姿は「三河武士の鑑」と激賞され、家康は伏見城の血染めの畳を江戸城の伏見櫓の階上に据え、家臣たちに遺徳を偲ばせたといわれます。また、血に染まった床板は京都の養源院や宝泉院に供養として送られ、天井として残っています。
長さ40mの巨大な土橋を発見
慶長20(1615)年に出された一国一城令により、二条城と伏見城の併存が難しくなり、伏見城は元和9(1623)年に廃城とされました。天守は二条城に(後に落雷で焼失)、唐門は西本願寺に移されるなど、各地に移築されました。
明治後は、明治天皇の陵墓(伏見桃山陵)になり、立ち入りが規制されていましたが、平成27(2015)年に大阪歴史学会や京都府の調査が一部許され、1辺十数m、高さ5mの天守台や、長さ40mにもなる巨大な土橋が見つかったといいますから、調査が進むことを期待したいと思います。
【伏見城】
昭和39年、伏見桃山城キャッスルランドが開園した際に作られたもので、鉄筋コンクリート製の五重六階の模擬大天守と三重四階の小天守がある。内部は非公開。
住所:京都市伏見区桃山町大蔵45
電話:075-602-0605
【西本願寺唐門(からもん)】
伏見城から移築されたとも伝えられる極彩色の四脚門(しきゃくもん)。彫刻の美しさに見ていると時間がたつのも忘れることから、別名「日暮らし門」と呼ばれ、国宝に指定されている。
【豊臣秀吉】
とよとみ・ひでよし。1537~1598年。現在の名古屋市中村の貧しい農家に生まれ、関白、天下人に上り詰める。「ひとたらし」と呼ばれるように人情の機微を見抜く力は戦国武将随一。中国大返し、高松城水攻め、石垣山一夜城など戦術もダイナミックで、機知に富む。信長の政策を引き継ぎ、刀狩りや太閤検地で安定化を図る。晩年に「唐入り」を宣言、文禄・慶長の役を引き起こしたことが汚点として残る。
松平定知 (まつだいら・さだとも)
1944年、東京都生まれ。元NHK理事待遇アナウンサー。ニュース畑を十五年。そのほか「連想ゲーム」や「その時歴史が動いた」、「シリーズ世界遺産100」など。「NHKスペシャル」はキャスターやナレーションで100本以上担当。近年はTBSの「下町ロケット」のナレーションも。現在京都造形芸術大学教授、國學院大学客員教授。歴史に関する著書多数。徳川家康の異父弟である松平定勝が祖となる松平伊予松山藩久松松平家分家旗本の末裔でもある。
※トップ画像は「Webサイト 日本の城写真集」