松平定知の「一城一話55の物語」

伊賀上野城に天守閣がなかった理由とは 「武士は七度主君を変える」と言った城作りの天才・藤堂高虎

伊賀上野城(「Webサイト 日本の城写真集」より)

『その時歴史が動いた』や『連想ゲーム』などNHKの数々の人気番組で司会を務めた元NHK理事待遇アナウンサーの松平定知さんは、大の“城好き”で有名です。2012年8月からは車雑誌「ベストカー」に月1回、全国各地の55のお城…

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『その時歴史が動いた』や『連想ゲーム』などNHKの数々の人気番組で司会を務めた元NHK理事待遇アナウンサーの松平定知さんは、大の“城好き”で有名です。2012年8月からは車雑誌「ベストカー」に月1回、全国各地の55のお城を紹介する記事を連載。20年には『一城一話55の物語 戦国の名将、敗将、女たちに学ぶ』(講談社ビーシー/講談社)として出版されました。「47都道府県の名城にまつわる泣ける話、ためになる話、怖い話」が詰まった充実の一冊です。「おとなの週末Web」では、この連載を特別に公開します。旗本の末裔で、NHK時代に「殿」の愛称で慕われた松平さんの妙趣に富んだ歴史のお話をお楽しみください。

「縄張り」の名人、日光東照宮や上野寛永寺も

藤堂高虎という人は城作りの天才でした。戦国武将は戦に勝つことが最大の任務でしたが、攻めるばかりがいい武将ではありません。鉄砲が伝来し、組織での合戦が行われるようになると、自分の領地を守るための城が築かれるようになります。室町時代にも城はありましたが、いわゆる山城で砦のようなものでした。

戦国時代は平地に城を築き、自分の領地を守るいっぽう、城を中心とした街作りが進んでいきます。城は防御の要と政庁を兼ね備えたものになりました。

城の設計を縄張りといいますが、藤堂高虎は縄張りの名人でした。彼が関わった城は18とも20ともいわれ、日光東照宮の造営奉行や上野寛永寺の造営も手がけています。

伊賀上野城の復興天守閣。伊賀上野城は、その優雅な外観から「白鳳城」とも呼ばれる hayakato@Adobe Stock

変えた主君は10人

彼はあの時代に浅井長政、阿閉貞征(あつじさだゆき)、磯野員昌(いそのかずまさ)、織田信澄(おだのぶすみ)、羽柴秀長、豊臣秀保、豊臣秀吉、徳川家康、徳川秀忠、徳川家光と主君を10人も変えています。がそれは彼が頭脳明晰で、主君の器量や時勢を読む目を持っていたことに加え、城作りの特技がそれを可能にしたのだと思います。

近江の小さな土豪の次男に生まれた藤堂高虎は、何人かの武将に仕えた後、羽柴秀吉の弟、秀長に300石で仕えたことで運が開けます。賤ヶ岳の戦いや紀州征伐にも従軍し、秀吉にも認められました。その後も四国攻めや九州征伐でも功を上げます。

伊賀上野城  hyperjellyfish@Adobe Stock

秀吉が亡くなると家康に急接近

秀長が病死すると、秀吉の甥の秀保に仕えますが、秀保も病死してしまいます。決して高虎が主君を裏切ったわけではありません。その証拠に高虎は、秀保の代理として文禄の役に出征し、秀保が亡くなると高野山で出家します。高虎の才能を惜しんだ秀吉が還俗させると、そのまま秀吉に仕えます。秀吉は高虎の武勇はもちろんですが、特に政治力の高さに期待してのことでしょう。世間では「交渉ごとは佐渡守(高虎のこと)に」といわれたように、弟の秀長に代わる存在になっていきました。

ところが、高虎は秀吉の次は徳川家康だと思っていた節があります。秀吉の息子・秀頼は幼く、豊臣家は天下を治められないとの判断が働いたのだと思います。秀吉が死ぬと家康に急接近、「それがしをご家来同然にお使いくだされ」と家康に申し出たといいます。このあたりが日和見やごますりと取られ、高虎の人気を落としているところでしょう。

伊賀上野城  ogurisu@Adobe Stock

22万石の大大名、小さな山国には過ぎた巨城

しかし、高虎の目に狂いはありませんでした。慶長5(1600)年に関ヶ原の合戦が勃発すると、西軍だった脇坂安治や朽木元綱らを東軍に寝返らせることに成功するなど、家康の勝利を決定づける仕事をします。家康の信頼を受けた高虎は伊予、今治20万石を与えられ、後に伊勢・伊賀に転封、22万石の大大名になります。

その際に大改修したのが伊賀上野城です。高石垣に加え大きな水堀を持つこの城は、大坂城の豊臣秀頼対策でした。小さな山国・伊賀には過ぎた巨城でしたが、築城中に豊臣氏が滅んだため、天守を持たないまま明治を迎えました。

伊賀上野城から見た伊賀市の街並み  arunco@Adobe Stock

32万石に加増、“昇給率”は4000倍!

大坂冬の陣、夏の陣では先鋒を務め、32万石に加増されるとともに勇敢な戦いが認められ「譜代の先鋒は井伊、外様の先鋒は藤堂」が、徳川の軍法となります。

家康臨終の際には枕元にいることを許され、秀忠、家光の両将軍にも仕え、ある意味、譜代大名以上の存在になっていました。能力のあるものには忠義を尽くし、そうでないものには義理立てしない。ドライかもしれませんが、戦国から江戸という時代を生き抜く知恵が詰まっていて、現代のビジネスマンにも参考になるのではないでしょうか。なお、初任給が3番目の主君・磯野員昌の時で80石でしたから、昇給率は4000倍!! です。

「高虎以来の裏切り上手」

藤堂藩(津藩)は改易されることもなく、幕末を迎えますが、鳥羽伏見の戦いの際、幕府側不利と見るや薩長軍に寝返り、官軍の勝利に大きく貢献します。この藤堂藩の裏切りを「さすが藤堂、高虎以来の裏切り上手」と都の人々は揶揄したといいますが、成功者の高虎は天国で「言わせておけ」と笑ったかもしれません。

伊賀上野城  ogurisu@Adobe Stock

【伊賀上野城】(別名・白鳳城)
天正13(1585)年に筒井定次が築城。定次が改易後に三重の天守閣が倒壊、慶長3(1608)年に伊予から入った藤堂高虎によって、慶長16(1611)年に大改修された。当時は徳川家康と大坂城の豊臣秀頼との関係が緊張を増し、大坂への備えとして五層の天守閣も建設が進められたが、暴風により倒壊し、復元されなかった。現在の天守は地元出身の代議士、川崎克(かわさきかつ)が私財を投じて昭和10(1935)年にできたものだ。
登閣料:大人600円、小人300円
開館時間:9~17時
休館日:12月29日〜31日
住所:三重県伊賀市上野丸之内106
電話:0595-21-3148(伊賀文化産業協会)

【藤堂高虎】
とうどう・たかとら。1556~1630年。近江の小土豪の次男に生まれ、主君を次々と変えることで最終的には伊勢、伊賀合わせて32万石の大大名に出世した。無給の身(初任給は3人目の磯野員昌に仕えた時の80石)からなんと4000倍になる。本人も「武士は七度主君を変えねば一人前とは言えぬ」と言ったとされる。城作りの名人で、伊賀上野城のほか津城、篠山城、膳所城、今治城、宇和島城などを作った。伊勢津藩(安濃津藩[あのつはん]とも呼ばれる)の初代藩主。

松平定知さん

松平定知 (まつだいら・さだとも)
1944年、東京都生まれ。元NHK理事待遇アナウンサー。ニュース畑を十五年。そのほか「連想ゲーム」や「その時歴史が動いた」、「シリーズ世界遺産100」など。「NHKスペシャル」はキャスターやナレーションで100本以上担当。近年はTBSの「下町ロケット」のナレーションも。現在京都造形芸術大学教授、國學院大学客員教授。歴史に関する著書多数。徳川家康の異父弟である松平定勝が祖となる松平伊予松山藩久松松平家分家旗本の末裔でもある。

※トップ画像は「Webサイト 日本の城写真集」

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