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秀吉が亡くなると家康に急接近

秀長が病死すると、秀吉の甥の秀保に仕えますが、秀保も病死してしまいます。決して高虎が主君を裏切ったわけではありません。その証拠に高虎は、秀保の代理として文禄の役に出征し、秀保が亡くなると高野山で出家します。高虎の才能を惜しんだ秀吉が還俗させると、そのまま秀吉に仕えます。秀吉は高虎の武勇はもちろんですが、特に政治力の高さに期待してのことでしょう。世間では「交渉ごとは佐渡守(高虎のこと)に」といわれたように、弟の秀長に代わる存在になっていきました。

ところが、高虎は秀吉の次は徳川家康だと思っていた節があります。秀吉の息子・秀頼は幼く、豊臣家は天下を治められないとの判断が働いたのだと思います。秀吉が死ぬと家康に急接近、「それがしをご家来同然にお使いくだされ」と家康に申し出たといいます。このあたりが日和見やごますりと取られ、高虎の人気を落としているところでしょう。

伊賀上野城  ogurisu@Adobe Stock

22万石の大大名、小さな山国には過ぎた巨城

しかし、高虎の目に狂いはありませんでした。慶長5(1600)年に関ヶ原の合戦が勃発すると、西軍だった脇坂安治や朽木元綱らを東軍に寝返らせることに成功するなど、家康の勝利を決定づける仕事をします。家康の信頼を受けた高虎は伊予、今治20万石を与えられ、後に伊勢・伊賀に転封、22万石の大大名になります。

その際に大改修したのが伊賀上野城です。高石垣に加え大きな水堀を持つこの城は、大坂城の豊臣秀頼対策でした。小さな山国・伊賀には過ぎた巨城でしたが、築城中に豊臣氏が滅んだため、天守を持たないまま明治を迎えました。

伊賀上野城から見た伊賀市の街並み  arunco@Adobe Stock
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松平定知
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