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ゴルフを始めて8年、46歳で五輪出場

これまでに3回、ゴルフはオリンピックの正式種目に加えられてきた。最初が1900年のパリ第2回大会において、2日間のストローク競技が行われたと伝えられるが、何しろ資金難もいいところ、陸上競技の入賞者にメダルが届いたのが2年後というお粗末さ、ゴルフに関しても記録の片鱗すら残っていない。

1904年、セントルイスで開催された第3回大会になると、すべての記録がほぼ完璧に残されている。ちなみにオリンピックのゴルフでは、1936年のベルリン大会で3回目が行われたのが最後、1996年のアトランタ大会でも決勝戦が予定されたオーガスタ・ナショナルに根深い差別主義があって、ついに断念せざるを得なかったのが真相と伝えられる。おぞましき人種差別主義者ども、きみたちは健全であるゴルフの癌だ、さっさとくたばれ!

セントルイス大会では、市郊外10キロに位置するグレン・エコーCCが会場に選ばれた。全長6203ヤード、パー72のコースは短く感じられるが、当時のクラブとボールの性能からすると容易な距離ではない。

記録によると、正規のクラブ会員であれば国と地域を問わず、誰でも参加可能だった。ただ単に参加料5ドルを添えて申し込むだけ。9月19日から36ホールのストロークプレーが行われて上位32名が選ばれると、いざ本選は抽選によって2名ずつ組み合わされ36ホールのマッチプレー勝ち抜き戦が4日間にわたって展開された。

この予選会でメダリスト(第1位)に躍り出たのが、ジョージ・ライオンである。数日前に46歳の誕生日を迎えたばかり、決して若くはなかったが、参加選手の中でもゆび折りの飛距離を誇ったと当時の新聞は伝える。

「特異のドライビング・アイアンを手に、ロングホールではことごとく2オンに成功する破壊的ゴルフが彼の身上。相手はヘビに射すくめられた蛙の如く、なす術もなかった」(「ミズリー・ポスト」より)

決勝戦では、片側から着実に這い上がってきた同年の全米アマ選手権覇者、弱冠26歳のチャンドラー・イーガンと対決することになった。当日は生憎の雨だったが、イーガンの凛々しい若武者ぶりにシビレる女性ファンも大勢つめかけて、グレン・エコーCCには3000人以上のギャラリーがひしめいた。髪に白いものが混じるライオンは、グレーのハンチングにグレーの上下、赤いネクタイという粋なスタイルで現われると、いきなりスターティング・ホールのパー5で2オンに成功、7メートルの長いパットも真ん中から沈めて迫力の出足ぶり。

7番のロングホールでも、まるでビデオの再生場面を見るように同じことがくり返されて、またもイーグル、若武者もバンカーからチップインさせる粘りで応酬したが、結局34ホール目に3アンド2、ライオンが五輪2代目の金メダルに輝いた。

「38歳からゴルフを始めて、ことしで丸8年目、いまだゲームの新参者と自認する私が、まさかオリンピックで優勝するなんて!」

表彰式のあと、インタビューに答えて彼は言った。

「ゴルフのおもしろさは、二度と同じ場所から打てない運命的な興奮にある。このスリルは人生の伴侶に申し分ない。私は死ぬまで夢中でいられるだろう」

受賞者だけのディナーの席上、彼は乞われるままに大ホールの隅から隅まで、逆立ちして横断する芸まで披露した。46歳にしてこの筋力、やはりライオンは並の男ではなかった。

もしカナダのオンタリオに旅する機会があるならば、「ロイヤル・カナディアン・ゴルフ・アソシエーション」の博物館まで足を向けてみてはいかがだろうか。ガラスケースの中央に、はにかんだ表情で立つ彼の写真と、滅多に存在しないゴルフの金メダルが燦然と輝いている。

(本文は、2000年5月15日刊『ナイス・ボギー』講談社文庫からの抜粋です)

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夏坂健

1936年、横浜市生まれ。2000年1月19日逝去。共同通信記者、月刊ペン編集長を経て、作家活動に入る。食、ゴルフのエッセイ、ノンフィクション、翻訳に多くの名著を残した。毎年フランスで開催される「ゴルフ・サミット」に唯一アジアから招聘された。また、トップ・アマチュア・ゴルファーとしても活躍した。著書に、『ゴルファーを笑え!』『地球ゴルフ倶楽部』『ゴルフを以って人を観ん』『ゴルフの神様』『ゴルフの処方箋』『美食・大食家びっくり事典』など多数。

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おとなの週末Web編集部 今井
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