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秀吉が死んだら誰が天下を取るのか…

秀吉は官兵衛を切れ者と認める一方、心を許しているわけではありませんでした。そのことを物語る有名なエピソードが、あります。秀吉がお伽衆に「わしが死んだら誰が天下を取ると思うか?」と問うたところ、徳川だ、前田だ、毛利だ、と声が上がるのを制して「黒田官兵衛じゃ」と語ったといわれるものです。

これを聞いた官兵衛は天正16(1588)年、隠居を決意し家督を長政に譲ろうとします。しかし、秀吉は隠居を許さず、実際に長政に家督を譲ったのは翌年のことです。

家督を譲っても秀吉は官兵衛を手放すことはありませんでした。天正18(1590)年の小田原の陣では官兵衛は北条氏政、氏直父子の投降を説得し、無血開城させる働きを見せ、さらに文禄・慶長の役では軍監として朝鮮に渡っています。

中津城  iuran@Adobe Stock

関ヶ原を確信、家康との「優勝決定戦」を狙ったが

官兵衛の人生がターニングポイントを迎えるのは秀吉が慶長3(1598)年に伏見城で亡くなってからです。その後の徳川家康の動きから、やがて天下を巡って、一大決戦があるだろうことを、官兵衛は確信します。

そして、慶長5(1600)年、関ヶ原の合戦が起きます。息子の長政が豊臣恩顧の武将を徳川方に引き込むほか、実戦でも大活躍する一方で、中津にいる官兵衛は東軍と内応し、九州の攻略を目指します。みんなが関ヶ原に行ってガラ空きの九州をいまのうちに攻略してしまおうと思います。天下分け目の関ヶ原。両軍あわせて15万超の「いくさ」はそう簡単には終わらない。最後に勝つのは家康だろうが、勝っても疲労困憊。その家康と日本一をかけて「優勝決定戦」をするのだ!

官兵衛は中津城の金蔵を開いて領内の百姓や浪人を集め約9000人の即席軍を作り、再起を期し西軍についた大友義統(宗麟の息子)の軍を別府の石垣原で撃破。その後も小倉城や久留米城、柳河城を開城するなど九州を平らげる勢いでした。しかし、「関ヶ原」が案に相違してわずか一日で決着がついてしまいました。そして、島津討伐に向け、加藤清正、立花宗茂、鍋島直茂とともに南下途中で徳川家康と島津義久との和議がなり、官兵衛の野望もついえることになります。

中津城から見た大分県中津市 hayakato@Adobe Stock
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