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「おまえの左手は何をしていたのだ?」

関ヶ原の勝利で息子長政は福岡52万石を与えられ、その喜びを官兵衛に報告した時のエピソードが官兵衛の悔しさを表しています。「内府(家康)が3度も手を取って感謝を表わしてくださいました」という長政に「内府の手は右だったか左だったか?」と問う官兵衛。「右手でした」と答えた長政にすかさず、「おまえの左手は何をしていたのだ?」と苦笑いしたというのです。

家康は官兵衛にはいっさいの恩賞を与えていないことから、その力を認め、怖れていたのでしょう。秀吉と家康に怖れられた“戦国最強”の男といえるかもしれません。

【中津城】(別名・扇城、せんじょう)
天正15(1587)年、豊臣秀吉の九州平定に伴い、黒田官兵衛が豊前6郡の領主として入国。翌年から築城を開始するも、官兵衛の時代には完成せず、関ヶ原の軍功でこの地を与えられた細川忠興が工事を引き継ぎ、元和6(1620)年に完成させた。模擬天守北側の堀の石垣にy字になっている部分があるが、右側が黒田時代、左側が細川時代の石垣だという。その後小笠原氏が城主となるも享保2(1717)年、奥平氏が入城。以来明治維新まで奥平氏の居城だった、奥平氏は家康の娘・亀姫が嫁ぎ、長篠の合戦で活躍した奥平信昌が有名。1964年鉄筋コンクリートで五重五層の模擬天守が再建。堀には海水が引き込まれ、今治城、高松城とともに日本三大水城とされる。
住所:大分県中津市二ノ丁本丸
入城料:大人(高校生以上)400円、子供200円
開門時間:9~17時
休城日:年中無休
電話:0979ー22ー3651

【黒田官兵衛】
くろだ・かんべえ。1546~1604年。天文15(1546)年、姫路城代・黒田(小寺)職隆(もとたか)の嫡男として生まれる。通称は官兵衛だが黒田孝高(よしたか)が実名。出家後は如水と称す。キリシタン大名として知られ、洗礼名はドン・シメオン。中津城内にイエズス会の駐在所があったと伝えられる。関ヶ原の合戦の際には、天下を取らんと中津で挙兵。九州の諸大名を打ち破ったが、あまりに早い関ヶ原の戦いの終結に官兵衛の夢もついえた。

黒田官兵衛像・中津城  tk2001@Adobe Stock

【福澤諭吉】
ふくざわ・ゆきち。1835~1901年。明治の啓蒙家として知られる福澤諭吉は中津藩の下級藩士を父に持ち、父の苦労を目の当たりにして「門閥制度は親の敵で御座る」の言葉を残した。実力があっても名を残せない封建制度を憎み、開明思想を吸収していった。中津城は江戸時代と決別すべきという福澤諭吉の進言で壊されたとされる。

松平定知さん

松平定知 (まつだいら・さだとも)
1944年、東京都生まれ。元NHK理事待遇アナウンサー。ニュース畑を十五年。そのほか「連想ゲーム」や「その時歴史が動いた」、「シリーズ世界遺産100」など。「NHKスペシャル」はキャスターやナレーションで100本以上担当。近年はTBSの「下町ロケット」のナレーションも。現在京都造形芸術大学教授、國學院大学客員教授。歴史に関する著書多数。徳川家康の異父弟である松平定勝が祖となる松平伊予松山藩久松松平家分家旗本の末裔でもある。

※トップ画像は「Webサイト 日本の城写真集」

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