松平定知の「一城一話55の物語」

首桶を持って鳥取城に入った吉川経家 秀吉との凄惨な「籠城戦」を後世はどう見たのか

鳥取城(「Webサイト 日本の城写真集」より)

酸鼻を究めた「鳥取城の飢え殺し」 7月、いよいよ秀吉が着陣し、城兵4000に対し、その5倍の2万人で包囲を開始します。秀吉軍は城周辺の農家を襲い、焼き払います。家を失った農民たちを城内に追い込む作戦でした。これによって城…

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『その時歴史が動いた』や『連想ゲーム』などNHKの数々の人気番組で司会を務めた元NHK理事待遇アナウンサーの松平定知さんは、大の“城好き”で有名です。2012年8月からは車雑誌「ベストカー」に月1回、全国各地の55のお城を紹介する記事を連載。20年には『一城一話55の物語 戦国の名将、敗将、女たちに学ぶ』(講談社ビーシー/講談社)として出版されました。「47都道府県の名城にまつわる泣ける話、ためになる話、怖い話」が詰まった充実の一冊です。「おとなの週末Web」では、この連載を特別に公開します。旗本の末裔で、NHK時代に「殿」の愛称で慕われた松平さんの妙趣に富んだ歴史のお話をお楽しみください。

傍流の石見吉川氏の出身

吉川経家は全国区の知名度はありませんが、鳥取の皆さんにはなじみの深い武将です。経家はその名のとおり、中国地方の有力な氏族、吉川(きっかわ)氏の出ですが、傍流の石見吉川氏の出身です。その彼が、なぜ鳥取城の籠城戦の大将となり、自刃しなければならなかったのか。

信長の命を受けた羽柴秀吉が、毛利攻略のため中国地方に向かったのが、天正5(1577)年。それから3年後の天正8(1580)年、秀吉は鳥取城攻めを開始しました。その時の城主は山名豊国でしたが、秀吉の呼びかけにいったんは開城・降伏し、盛り返した毛利方によって追放されてしまいます。

鳥取城跡  tk2001@Adobe Stock

城主不在の鳥取城に守将として派遣

翌天正9(1581)年、城主不在となった鳥取城に守将として派遣されたのが吉川経家でした。これは、吉川一門の総帥で、毛利元就の次男・吉川元春の要請によるもので、経家は文武に優れ人望も厚かったことから選ばれたのです。600石の領地がその対価でした。

経家は首桶を持参して入城したといわれます。死を覚悟の籠城でした。とはいえ、経家にも勝算がないわけではありません。というのも冬になれば山陰鳥取は雪が降り、兵糧不足に秀吉軍は音を上げるだろうという期待があったのです。ところが、その鳥取城には兵糧米がないことに、経家は愕然としました。秀吉が城下の米を買い占めたため、その高値につられて、城内の米まで売ってしまったのでした。なんと3カ月分ほどの兵糧しかありません。

鳥取城跡の石垣  Miyake74@Adobe Stock

酸鼻を究めた「鳥取城の飢え殺し」

7月、いよいよ秀吉が着陣し、城兵4000に対し、その5倍の2万人で包囲を開始します。秀吉軍は城周辺の農家を襲い、焼き払います。家を失った農民たちを城内に追い込む作戦でした。これによって城内の人口は膨れあがり、食糧がさらに窮乏していきます。秀吉軍の包囲網は、ネズミ一匹通さないくらいの完全なものでした。陸上がダメならと海上からと、毛利側は水軍によって兵糧を運ぼうとしますが、秀吉軍はこれも撃退。困窮した城からは悲鳴が上がるようになります。一連の緻密な作戦は、秀吉の軍師・黒田官兵衛によるものです。

9月になると、いよいよ食糧が尽きてきます。城内では兵士が草木はもちろん、壁を食べたという記録も残っています。その窮状は酸鼻を極め、「鳥取城の飢え殺し(かつえごろし)」として世に知られることになります。

鳥取城跡の城門  Uro@Adobe Stock

秀吉は奮闘を称えたが、助命を拒否

10月24日、ついに経家は開城を決意し、自分の命と引き替えに城兵を助けよと秀吉に使者を送ります。秀吉は経家の奮闘を称えて助命を決めましたが、経家はこれを拒否。預かった城とはいえ、結果的に多くの死者を出した責任を取ったのです。そこには鎌倉時代から武士が持ち続けてきた「名こそ惜しけれ」という精神が強く感じられます。

自分を鳥取城に送った吉川元春の嫡男・吉川経言(後の吉川広家)に送った遺書には、「毛利軍と織田軍が激突した、2つの弓矢の境目で、こうして切腹できることは、末代までの名誉である」と書かれていました。

鳥取城跡の石碑  琢也 栂@Adobe Stock

後世の秀吉人気に影を落とした?

敗将が仮に勇敢で清廉な吉川経家でなかったなら、秀吉の鳥取城攻めは凄惨な印象がさらに強まり、後世の秀吉人気に影を落としたかもしれません。

経家は肖像が残っておらず、鳥取市武道館裏にある銅像は、経家の流れを汲むといわれる先代の三遊亭圓楽さんの顔をモデルにしたと聞きましたが……。

【鳥取城】(別名・久松城、きゅうしょうじょう)
因幡守護の山名誠通(やまなのぶみち)が天文14(1545)年に築城したと伝わる。天正8(1580)年、織田信長の命を受けた羽柴秀吉が山名豊国を攻める(第一次鳥取城攻め)と、豊国は3カ月の籠城の後、降参。代わって毛利一門の吉川経家が大将となり、籠城して秀吉に徹底抗戦。これが世に言う、鳥取城の飢え殺し(かつえごろし=第二次鳥取城攻め)だ。城内の兵士は飢餓で壁を食べたという記録も残る。関ヶ原の合戦の後、池田氏が入り、32万5000石の城下町として鳥取は栄えた。
住所:鳥取市東町2
電話:0857-26-0756(鳥取市観光コンベンション協会)

鳥取城跡の吉川経家公像  mtaira@Adobe Stock

【吉川経家】
きっかわ・つねいえ。1547~1581年。毛利家の家臣・吉川家の分家である石見吉川家に生まれる。織田信長の命を受けた羽柴秀吉が鳥取城に迫ると吉川経家は因州600石の領地を約束され鳥取城に入城。経家は首桶持参だったという。4000人の兵で4カ月籠城するも、秀吉軍2万が包囲、兵糧攻めを受け、落城。秀吉は経家の命を許したが、経家は拒否し、城兵の命を助けるという約束を取り付け、やせ衰えた姿ながらも見事に切腹したという。信長のもとに首が届けられると秀吉が「哀れなる義士かな」と死を惜しんだと伝わる。

松平定知さん

松平定知 (まつだいら・さだとも)
1944年、東京都生まれ。元NHK理事待遇アナウンサー。ニュース畑を十五年。そのほか「連想ゲーム」や「その時歴史が動いた」、「シリーズ世界遺産100」など。「NHKスペシャル」はキャスターやナレーションで100本以上担当。近年はTBSの「下町ロケット」のナレーションも。現在京都造形芸術大学教授、國學院大学客員教授。歴史に関する著書多数。徳川家康の異父弟である松平定勝が祖となる松平伊予松山藩久松松平家分家旗本の末裔でもある。

※トップ画像は「Webサイト 日本の城写真集」

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