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信長に気を遣い、光秀に同情し、秀吉にこき使われた

順慶は神経の細かい人だったようで、現代でいうところの神経症が高じて、たびたび病に伏すようになります。病をおして小牧・長久手の戦いに参陣しますが、無理がたたったのでしょう、大和に戻ると亡くなってしまいます。まだ36歳の働き盛りでした。

信長に気を遣い、光秀に同情し、秀吉にこき使われ、神経がすり減っていったと想像されます。戦国の世の中堅武将は、現代の競争の厳しい企業の中間管理職のようなもので、タフでなければ務まらないものだったのでしょう。

500年近い時を経て現代まで残る、2つのことわざを残したという点で、筒井順慶は歴史にその名を刻みました。

高取城跡  shonen@Adobe Stock

【高取城】(別名・芙蓉城)
南北朝の頃、南朝側の豪族越智氏によって築かれたが、筒井順慶が大改修し、秀吉の弟・秀長が大和郡山城を本拠とした後は支城として整備された。標高約583mの要害にあり、往時は多聞櫓で連結された三重の大小天守や17の三重櫓を含む27もの櫓と33の門があったという。岐阜の岩村城、岡山の備中松山城とともに三大山城とされる。明治の頃まで天守は残ったが、払い下げや取り壊しがあり、現在は石垣が残るのみ。城内の周囲は約3km、城郭内は約30kmにもなる巨大なものだ。
住所:奈良県高取町高取
電話:0744-52-1150(高取町観光案内所夢創館)
■旧二の門
高取町内にある真言宗の子嶋寺の山門は高取城二の門を移築したもので、現存する唯一の遺構である。
住所:奈良県高取町観覚寺544

高取城跡  亜土 原田@Adobe Stock

【筒井順慶】
つつい・じゅんけい。1549~1584年。大和国の戦国大名、筒井順昭の子で、僧侶となるが父の死により僧侶のまま家督を継ぐ。梟雄(きょうゆう)と呼ばれた松永弾正と領地を争うが、織田信長に臣従し、大和守護に任ぜられる。弾正の居城、信貴山城(しぎさんじょう)攻めで先鋒を務めるなど、信長政権下で存在感を高めていった。本能寺の変の後に起こった山崎の合戦の際に明智光秀の誘いを受け、洞ヶ峠まで出たが、羽柴秀吉からの誘いも受け、どちらにもつかず優柔不断を決め込んだことから「洞ヶ峠を決め込む」という言葉が生まれたとされるが、事実とは違う。

松平定知 (まつだいら・さだとも)
1944年、東京都生まれ。元NHK理事待遇アナウンサー。ニュース畑を十五年。そのほか「連想ゲーム」や「その時歴史が動いた」、「シリーズ世界遺産100」など。「NHKスペシャル」はキャスターやナレーションで100本以上担当。近年はTBSの「下町ロケット」のナレーションも。現在京都造形芸術大学教授、國學院大学客員教授。歴史に関する著書多数。徳川家康の異父弟である松平定勝が祖となる松平伊予松山藩久松松平家分家旗本の末裔でもある。

※トップ画像は「Webサイト 日本の城写真集」

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