必要経費も年間100万円
さて、読者の周辺にも競馬で儲けていると自称するファンはおいでになると思う。
しかし真に受けてはならない。年に一度か二度とか、GIレースだけ、とかいう趣味のファンならいざ知らず、毎週何がしかの馬券を買いながらプラス収支を計上するということは数理上ありえないのである。
もしそれが本当だとしたら彼は、「1000円と750円を交換し続けてもなおおカネの増える奇蹟の人」ということになる。
私のかなり確信的な推測によれば、毎週馬券を買い続けていながら「俺は勝っている」と豪語している人でも、年間100万円は負けている。だが、それでも彼は名人である。
「ま、トントンだね」と答える人は、200万円ぐらい負けている。これがごく一般的なファンであろう。はっきりと「俺はハマっている」と自覚できる人は、300万円以上は負けている。
幸い競馬ファンの中に正確な収支明細をつけている人はおらず(そういう律儀者は最初から競馬なぞやらない)、また馬券を買うカネというものはふしぎとどこかしらからか出てくるものであるから、みなさんことほどに被害者意識はない。
しかし年間数百万円のカネといえば、人生を変えうるほどの大金である。
さらにこれに加えて、競馬をやるには存外経費がかかる。
私の昨年度の税務申告によれば、新聞、メシ、交通費、入場料、指定席代その他モロモロの必要経費が約100万円支出されている。ふつう勝とうと思えば、これだけの出費はどうしても必要である。
もちろん一般のファンは私ほどパーフェクトに競馬場まで通ってはいないだろうし、関西やローカルまで足を延ばしたりはしないだろうから、まず半分の50万円と見てよかろう。
しかし私は全く酒を飲まないので、競馬場の帰りに掛茶屋で一杯やる人は、私より経費をかけているとも言える。
要するに、永遠の25パーセントのテラ銭を物ともせず、年間100万円の経費すらカバーしうる人だけが、真の勝利者なのである。
小説を書くことは別段自慢にはならないが、以上の理由により、例年競馬で勝ち越していることは、私の自慢である。
(初出/週刊現代1995年4月22日号)
浅田次郎
1951年東京生まれ。1995年『地下鉄(メトロ)に乗って』で第16回吉川英治文学新人賞を受賞。以降、『鉄道員(ぽっぽや)』で1997年に第117回直木賞、2000年『壬生義士伝』で第13回柴田錬三郎賞、2006年『お腹(はら)召しませ』で第1回中央公論文芸賞・第10回司馬遼太郎賞、2008年『中原の虹』で第42回吉川英治文学賞、2010年『終わらざる夏』で第64回毎日出版文化賞、2016年『帰郷』で第43回大佛次郎賞を受賞するなど数々の文学賞に輝く。また旺盛な執筆活動とその功績により、2015年に紫綬褒章を受章、2019年に第67回菊池寛賞を受賞している。他に『きんぴか』『プリズンホテル』『天切り松 闇がたり』『蒼穹の昴』のシリーズや『日輪の遺産』『憑神』『赤猫異聞』『一路』『神坐す山の物語』『ブラック オア ホワイト』『わが心のジェニファー』『おもかげ』『長く高い壁 The Great Wall』『大名倒産』『流人道中記』『兵諌』『母の待つ里』など多数の著書がある。