長曾我部氏は滅亡、山内氏のもとで「下士」として差別されたが…
戦後は、当時の居城であった浦戸城の受け渡しをめぐって浦戸一揆が起こったことで、長宗我部氏は改易。盛親は浪人になってしまいます。その後盛親は、勝利の暁には土佐一国を頂戴することを条件に豊臣方についた大坂の陣でもあえなく敗れ、斬首。これで四国の雄・長宗我部氏は滅亡してしまいます。
長宗我部氏のあと土佐を治めたのは、遠江・掛川から移封となった山内一豊でしたが、山内氏の家臣団は、遠江から連れてきた子飼いの武士(上士)と、長宗我部氏の遺臣である下士とに分かれ、下士は厳しく差別されました。下士のなかでも一領具足の系譜を引く地侍の末裔は郷士(ごうし)と呼ばれる身分に多く、坂本龍馬も郷士の生まれでした。
徳川家に滅ぼされた長宗我部氏の遺臣の末裔たちが、徳川幕府にリベンジを果たしたのが、明治維新という革命です。郷士たちの熱いエネルギーが土佐藩を動かし、薩摩や長州とともに倒幕の力になっていくのですから、歴史はほんとうに不思議なものです。
【岡豊城】(おこうじょう)
標高97mの岡豊山にあり、長宗我部氏の居城だった。長宗我部元親は岡豊城で誕生した。長宗我部氏は鎌倉時代初期に信濃から土佐へ移住したとされ、岡豊城は13~14世紀の築城と考えられている。元親は岡豊城を拠点に天正2(1574)年、土佐を平定、さらに天正13(1585)年、四国をほぼ平定した。天正19(1591)年新たに浦戸城を築き、岡豊城は廃城になる。石垣や土塁、空堀が残るだけだが、平成31年2月まで仮設の櫓があり、人気となっていた。
■高知県立歴史民俗資料館
岡豊城跡にある歴史系総合博物館で、長宗我部氏の関連資料や土佐の歴史などを紹介。
住所:高知県南国市岡豊町八幡1099ー1
電話:088ー862ー2211
開場時間:9時 ~ 17時(入館は16時半まで)
休館日:年末年始、12月27日〜1月1日 ※臨時休館あり
観覧料:通常展のみの期間は大人(18歳以上)470円、企画展は大人(18歳以上)520円、高校生以下無料 ※観覧料は特別展・企画展等により異なる場合があります
■岡豊城の竪堀
竪堀は斜面に掘られた堀のことで、戦いの時は本城を守る機能のほか、平時は物資の上げ下げに使われた。
【長宗我部元親】
ちょうそかべ・もとちか。1538~1599年。土佐の戦国大名であり、一領具足の生みの親である長宗我部国親の嫡男で長宗我部氏21代当主。幼少期は色白でおとなしく、「姫若子(ひめわこ)」とバカにされたが、22歳の初陣で槍を持ち見事な突撃を見せ、「土佐の出来人」と称された。その後元親は岡豊城を拠点に天正2(1574)年土佐を平定、さらに天正13(1585)年に四国をほぼ平定した。しかし、同年羽柴秀吉に攻められ降伏。土佐一国を安堵され、豊臣政権下で九州征伐や小田原征伐などに参加。秀吉が亡くなった翌年死去。後継者の四男盛親は関ヶ原の戦いで西軍につき改易、浪人となる。さらに大坂の陣では豊臣方につき敗北、斬首され戦国大名の長宗我部氏は滅亡する。
松平定知 (まつだいら・さだとも)
1944年、東京都生まれ。元NHK理事待遇アナウンサー。ニュース畑を十五年。そのほか「連想ゲーム」や「その時歴史が動いた」、「シリーズ世界遺産100」など。「NHKスペシャル」はキャスターやナレーションで100本以上担当。近年はTBSの「下町ロケット」のナレーションも。現在京都造形芸術大学教授、國學院大学客員教授。歴史に関する著書多数。徳川家康の異父弟である松平定勝が祖となる松平伊予松山藩久松松平家分家旗本の末裔でもある。
※『一城一話55の物語 戦国の名将、敗将、女たちに学ぶ』(講談社ビーシー/講談社)から転載
※トップ画像は「Webサイト 日本の城写真集」