幼少時は色白で「姫若子」とからかわれ
長宗我部元親は、天文7(1538)年、岡豊城で生まれました。幼少の頃は色白で、「姫若子(ひめわこ)」と揶揄されますが、初陣でその印象は一変します。長浜合戦と呼ばれる本山氏との戦いで、槍を手に突進して敵兵を突き崩したのです。勢いに乗った長宗我部軍は圧勝し、元親は「土佐の出来人」と賞賛され、敵からは「鬼若子(おにわこ)」と恐れられました。
父の急死を受け当主に
父・国親の急死を受けて当主となった元親は、「一領具足」を存分に活用、周辺の土豪たちを次々に打ち破ります。一領具足によって兵を短時間で集めることができることを生かして電撃戦を仕掛け、戦を有利に運ぶことができました。
その後も元親は勢力を広げ、土佐一条氏の当主・一条兼定を四万十川合戦で打ち破り、土佐の統一を果たすのです。
さらに元親は領地を広げるべく、織田信長と同盟を結んで阿波・讃岐に侵攻し、両国ともにほぼ制圧します。その後伊予にも兵を送りますが、こちらでは地元豪族の抵抗に遭って苦戦。しかし四国の大半は手に落ちました。
本能寺の変で危機を脱出
それを見た信長は、元親の四国統一が自分に不利に働くと見て、領地を返上し臣下になるよう迫ります。元親はこれを拒否。信長との決戦が迫りますが、本能寺の変で危機を脱出。秀吉が送り込んだ仙石秀久も引田の戦いで撃破し、天正13(1585)年春には、四国をほぼ統一することに成功しました。
しかし、元親の栄華は長くは続きませんでした。秀吉は弟の羽柴秀長を総大将に、10万もの兵で四国に攻め入ったのです。世に言う四国攻めです。この強大な軍を前に、元親は伊予と土佐の安堵を条件に秀吉と和睦を図ろうとしますが、結局土佐一国に押し込められ、秀吉政権の一大名に成り下がりました。そして、秀吉の九州攻めでは、嫡男の信親とともに先鋒として出陣した元親でしたが、難敵・島津軍を前に大敗。期待をかけていた信親も討ち死にしてしまいます。
後継者に指名した四男・盛親はというと、関ヶ原の戦いで西軍につくものの、毛利軍が動かなかったことでその後方に陣していた長宗我部軍もなすすべなし、戦うことなく敗戦となりました。