「堀田は腹を切れ!」
堀田にとっては、アメリカとの通商条約提携は望むところでしたが、ハリスはあくまでもアメリカの利益を考えるアメリカ第一主義。日本国内も一枚岩ではなく、思うように交渉が進みません。
なかでも御三家・水戸の徳川斉昭が筋金入りの攘夷論者で、「堀田は腹を切れ!」と大反対する始末です。後の混乱を避けるためには、通商条約締結には御三家と相談し、異論がないかたちをとらなければと堀田は考えていました。
孝明天皇の勅許を得ようと、京都へ
進退窮まった堀田は、孝明天皇の勅許を得ようと、京都の朝廷に出向きますが、孝明天皇をはじめ攘夷派公家の反対にあい、堀田は手ぶらで江戸に戻らざるをえませんでした。
そこで堀田は次の手を考えます。それは将軍後継問題です。彼は元来、紀州藩主徳川慶福派だったにもかかわらず、対立する徳川斉昭の息子・一橋慶喜を推すことにしたのです。堀田は斉昭に貸しを作る計画でした。しかしこれもうまくいかず、結局慶福が後継将軍となり、その慶福を推した井伊直弼が大老に就任します。