三菱ギャランVR-4はWRCで勝つために生まれたスーパーウェポンで、デビュー直後から当時のクルマ好きを魅了しました。その魅力に迫ります。
画像ギャラリー今でこそ世界で確固たる地位を築いている日本車だが、暗黒のオイルショックで牙を抜かれた1970年代、それを克服し高性能化が顕著になりイケイケ状態だった1980年代、バブル崩壊により1989年を頂点に凋落の兆しを見せた1990年代など波乱万丈の変遷をたどった。高性能や豪華さで魅了したクルマ、デザインで賛否分かれたクルマ、時代を先取りして成功したクルマ、逆にそれが仇となったクルマなどなどいろいろ。本連載は昭和40年代に生まれたオジサンによる日本車回顧録。連載第18回目に取り上げるのは、6代目三菱ギャランだ。最強モデルのVR-4を中心に振り返る。
ハイソカーブームで4ドアハードトップが大人気
1982年に4代目トヨタマークIIがビッグマイチェンを受けて登場。ツインカム24と称した2L、直6DOHCエンジンを搭載して大ヒット。姉妹車のチェイサーも同時に改良を受けたが、マークIIほどの人気は得られなかった。
これ機に日本では白い4ドアハードトップがバカ売れ。これがいわゆるハイソカーブームで、クルマ好き、そうでない者に関係なく老若男女を熱狂させた。日本のクルマ史において、最も4ドアセダン系モデルが売れた時期だった。
三菱はハイソカーブームの蚊帳の外
ハイソカーブームほぼほぼトヨタの独壇場で、ツートップの一角の日産でさえ苦戦を強いられたくらい。三菱はどうだったか。
三菱はハイソカーブームの真っ只中の1984年にギャランΣハードトップ、姉妹車のエテルナΣハードトップをデビューさせていた。5ナンバーサイズながら伸びやかでエレガントなデザインが与えられていたが、残念ながらハイソカーブームの波には乗れず蚊帳の外状態だった。
当時の三菱車はΣだけにかぎらず「エンジニアが作りたいクルマ」、「マニアックで個性的だが万人受けしない」というイメージが強かった。実際に評論家などプロからのクルマの評価は高かったが、「いいクルマだが売れない」の典型だったとも言える。
時代に逆行したコンセプト
その三菱が1987年に登場させたのが6代目ギャランだ。ギャランは3代目から5代目までギャランΣを名乗っていたが、2代目以降久々にΣがとれてギャランとして登場。前述のように、車高の低い4ドアハードトップ全盛時代のトレンドに逆行するようなビッグキャビン+背の高いセダンボディで登場したのには驚かされた。
自動車雑誌の『ベストカー』でおなじみだった徳大寺有恒氏は、一連の4ドアハードトップ、特にカッコ優先で背が低くクーペルックと謳っていた初代トヨタカリーナEDを酷評するなど嫌悪。辛口評価で馴らした氏が、6代目ギャランについてはコンセプト、デザインを認める発言をしていたのは今でも覚えている。ただランチアのようなグリルについては思いっきり否定していたが……。
骨太マッチョなデザイン
6代目ギャランはピラー類が立っていてキャビンスペースが大きく、見事なまでの昔ながらの実用セダンという感じだったが、逆スラントしたノーズ、精悍さを感じさせる異形4灯ヘッドライトが精悍で、スポーティに感じさせたのは見事。
最大の特徴はボディサイドのデザインで、断面形状をS字型にした”S面カット”の採用により5ナンバーサイズながら骨太マッチョに仕上げていた。
6代目ギャランでは、三菱のスリーダイヤがエンブレムとして復活したのも大きなトピックでオールドファンを喜ばせた。
日本車のセダンは星の数ほどあるが、セダンとしてのパッケージングとスポーティさを両立という点では、1990年にデビューした初代日産プリメーラとこの6代目ギャランが日本車の双璧だと思っている。
TV CMが超マニアック
新型車が登場すると、TV CMが流される、というのが一般的だが、ギャランのTV CMがマニアックでカッコよかった。1997年のデビューから1992年に生産終了となるまでにいろいろなTV CMが流されていたが、どれもがイメージCMでカッコよかったし、何よりもCMに使われていた楽曲が超マニアックだった。
その一例を挙げると、ティエリー・ミュータン(フランス)の『Sketch Of Love』、マティア・バザール(イタリア)の『Amami』、シャロン・リフシッツ(イスラエル)の『If We Don’t』、ノヴァ・エラ(イタリア)の『Dopo l’infinito Dentro l’ingnoto』、シネイド・オコナー(アイルランド)の『Troy』など、上記のアーティストのファンには申し訳ないが私がまったく知らないシブいアーティストのシブい曲を使っていた。三菱の担当または、代理店が相当マニアックだったんだろう。
シネイド・オコナー(当時はシニードと言っていた気がする)が1990年にプリンスの楽曲『Noting Compare 2U』で世界的ヒットとなって、ギャランのCMの人ね、と思い出したくらい。そのシネイドも2023年7月に逝去。
クルマ界はミッド4-IIが話題独占
1987年のクルマ界で最も話題になったのは東京モーターショー1987で公開された日産ミッド4-IIにとどめを刺す。1985年に公開したミドシップ4WDスポーツのミッド4の進化版で、デザインはいつ市販されてもおかしくないほど洗練されていた。コンセプトカーではなく、市販を前提としたプロトタイプと言っていいものだったが、結局市販されず。日産の財政悪化などが要因と言われたが、ミッド4-IIがお位入りになったのは事件だった。
石原裕次郎氏の逝去
クルマ以外では、石原裕次郎氏の逝去はビッグニュースだった。私を含め当時の20代の若造にとって石原裕次郎氏といえば、TVドラマ『太陽にほえろ!』(日本テレビ系列・1972~1975年)のボス役程度の認識だったが、青春を捧げた私の母親は、「裕ちゃんがぁ~!!」と悲嘆に暮れていた。
そのほかのトピックは、アサヒスーパードライが発売されたこと。60%を超えるビールのシェアを誇ったキリンをアサヒビールが抜くことになるなんて想像もつかなかった。クルマ界に例えれば、三菱がトヨタを抜いてトップシェアになるようなものだから……。
豊富なバリエーションで万人受けを狙う
6代目ギャランはFF(前輪駆動)から販売を開始し、1.6L、1.8L、2Lをラインナップ。そして、4WDは2Lターボ+4WDのVR-4、2Lノンターボ+4WDのVX-4を追加。最終的には1.8Lディーゼルターボも設定し、シリーズ合計で5種類のエンジンを設定した効果もあり、6代目ギャランは一躍ヒットモデルとなった。
そんななか日本車が高性能追求時代に突入していたこと、景気のよさも後押ししてトップモデルの4WDターボのVR-4の注目度は絶大だった。
三菱の最新技術を満載
ギャランVR-4はハイテク満載で登場したのも特筆で、フルタイム4WD、4WS(四輪操舵)、4IS(四輪独立懸架)、4ABSといった三菱の最新技術が惜しげもなく投入された。これらのハイテク装備を三菱ではアクティブ4と命名していた。
それから心臓部も強力!! 今でも名機と誉れ高い4G63型の2Lターボエンジンは205ps/30.0kgm。205psはグループAのホモロゲ取得用として限定販売された日産スカイラインGTS-Rの210psに次ぐもので、2Lクラスのカタログモデルとしては当時最強スペックを誇った。デビュー時の車両価格は278万1000円。2Lセダンとしては高かったが、同時期にデビューした同じ4WDセダンの日産ブルーバードSSSアテーサが291万円だったことを考えるとむしろ安かったくらいだろう。
スポーツカーを相手にしない骨太な走り
三菱のエンジン特性は昔からパワーよりもトルク重視。ギャランVR-4は30.0kgmの最大トルクをわずか3000rpmでマークするため、強烈な加速性能を誇った。当時は前述のGTS-Rが2Lクラスの最速の座にあったが、ギャランVR-4はそのGTS-Rに肉薄するゼロヨン14秒45、最高速225km/hをマーク。これにはぶっ飛んだ。
同じ4WDのセリカGT-FOURを楽々とカモり、2Lクラスのスポーツカーをも相手にしなかった。デザインが骨太なら、走りも骨太だったのだ。
その一方で、ハイスペックだがトルクが太いため街中で扱いやすく、足回りもガチガチに固められていたわけではなかったのでセダンとしての使い勝手は抜群だった。
三菱はギャランでWRC復帰
三菱は初代パジェロでパリ・ダカールラリーに挑戦し、それが大きなイメージアップとなっていた。それはWRC(世界ラリー選手権)についても同様だったが、1983年にワークス活動を休止していた。
その三菱がWRCに復帰するにあたり、マシンのベースとして選んだのがギャランだったのだ。WRCは1986年かぎりで市販車とはかけ離れたモンスターマシンで争われていたグループBが終焉となり、1987年からは改造範囲の狭いグループA車両によって争われることになっていたので、高性能の4WDターボ車を市販する必要があった。
VR-4が街中では持て余すような過剰なまでの性能が与えられていたのは、WRCで勝つためだったのだ。
ちなみに三菱の高性能スポーツモデルにはGSRというグレードが与えられていたが、6代目ギャランでは使用されず。VR-4はV(VICTORY)、R(RUNNER)、4(4WD)の意味で、『勝利をひた走る』、つまりWRCで勝つという願望が込められている。グレード名からもギャランがWRCありきで開発されたことがよくわかる。
VR-4はWRCで6勝をマーク
ギャランVR-4はデビューした翌年の1988年からWRCに投入され、ランチアデルタ、トヨタセリカGT-FOUR、マツダ323(日本名ファミリア)などと総合優勝を争い、1989年の1000湖ラリー(フィンランド)で初優勝。
WRCでギャランVR-4は1992年までに合計6勝を挙げ、その6勝のうちの2勝(1991年、1992年のアイボリーコースとラリー)は、2024年3月に逝去された篠塚建次郎氏がマークしたものだ。
WRCによりイメージアップ
WRCで勝つために進化を続けたのもVR-4の特権だった。2Lターボエンジンは、1989年に220ps、1990年に240psへとパワーアップさせるなど毎年のように手を加えて戦闘能力を高めた。この進化をファンは絶大に支持し販売も好調と好循環。
となれば、この高性能4WDセダンをATで乗りたいという需要も高まり、それに応えて220psにパワーアップさせた時に4ATモデルを追加して新たなユーザーを獲得した。4ATモデルは信頼性確保のため210psとパワーダウンしていたが、不満など出るわけなし。
勢いに乗る三菱は、WRC優勝記念車など限定車を巧みに販売し、イメージ戦略もバッチリ。
ランサーエボリューションはVR-4の実質後継車
6代目ギャランは1992年まで販売されて、7代目にバトンタッチとなったが、WRCに関してその後を継いだのが1992年にデビューしたランサーエボリューションだ。
ランサーエボリューションは、ギャランで培った強力なパワーユニット、強靭なボディ&シャシー、走破性に優れた4WDシステムをギャランよりも小さなボディに搭載する究極のコンペティションモデルとして開発された。
その超絶な性能、インプレッサとの宿敵対決などについては別の機会に触れたいと思うが、ギャランVR-4があったからランエボが存在すると言っていいだろう。
ギャランAMGは隠れた名車
6代目ギャランシリーズではトップグレードのVR-4に注目が行くのは当然だが、最後に1989年のマイチェン時に追加されたAMGにも触れておきたい。AMGが関与した三菱車は、1986年デビューのデボネアAMGがあったが、こちらはエアロパーツ、アルミホイール、内装などのドレスアップだけだったが、ギャランAMGは別物だった。
三菱が4G63エンジン(ノンターボ)をドイツのAMG(現在のメルセデスAMG)に空輸し、それをAMGが専用チューニング。そのAMGチューンのエンジンを三菱のエンジニアが再現するという非常に凝ったものになっていた。エンジンのほか足回りもAMGがチューニングしていた隠れた名車だ。
ターボとは違う滑らかなフィーリングは絶賛されていたが、4WDターボのVR-4よりも高い280万円の価格がネックとなり販売は振るわなかった。
6代目ギャランは、斬新なコンセプトに始まり、幅広いエンジンバリエーション、WRCで勝つためのトップモデルのVR-4、超絶玄人好みのAMGなど、とにかくチャレンジングなクルマだった。
【ギャランVR-4主要諸元】※デビュー時
全長4560×全幅1695×全高1440mm
ホイールベース:2600mm
車重:1340kg
エンジン:1997cc、直列4気筒DOHCターボ
最高出力:205ps/6000rpm
最大トルク:30.0kgm/3000rpm
価格:278万1000円(5MT)
【豆知識】
日産は1995年のフランクフルトショーでミドシップ4WDスポーツのミッド4を公開。その進化版がミッド4-IIで、ボディサイズは全長4300×全幅1860×全高1200mm、エンジンは3L、V6DOHCツインターボ(330ps/39.0kgm)となっていた。ジャーナリスト向けに試乗会が開催されるなど、日産は本気で市販化を目指していたが、財政の悪化、市販するなら車両価格が1000万円オーバーとなり販売が見込めないなどを理由に市販化を断念。エクステリアデザインはミッド4、ミッド4-IIともに前澤義雄氏が手掛けた。
市原信幸
1966年、広島県生まれのかに座。この世代の例にもれず小学生の時に池沢早人師(旧ペンネームは池沢さとし)先生の漫画『サーキットの狼』(『週刊少年ジャンプ』に1975~1979年連載)に端を発するスーパーカーブームを経験。ブームが去った後もクルマ濃度は薄まるどころか増すばかり。大学入学時に上京し、新卒で三推社(現講談社ビーシー)に入社。以後、30年近く『ベストカー』の編集に携わる。
写真/MITSUBISHI
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