初代&2代目のダイハツシャレードは1970年代後半から1980年代終盤にかけて人気となったコンパクトカーですが、画期的かつ革命的な一台でした。
画像ギャラリー今でこそ世界で確固たる地位を築いている日本車だが、暗黒のオイルショックで牙を抜かれた1970年代、それを克服し高性能化が顕著になりイケイケ状態だった1980年代、バブル崩壊により1989年を頂点に凋落の兆しを見せた1990年代など波乱万丈の変遷をたどった。高性能や豪華さで魅了したクルマ、デザインで賛否分かれたクルマ、時代を先取りして成功したクルマ、逆にそれが仇となったクルマなどなどいろいろ。本連載は昭和40年代に生まれたオジサンによる日本車回顧録。連載第19回目に取り上げるのは、初代&2代目ダイハツシャレードだ。
排ガス規制で一石を投じた初代シャレード
日本は道路が狭いなどの事情もあり、昔から小さなクルマが存在感を誇示してきた。日本独自のカテゴリーである軽自動車はその最たるものだが、モータリゼーションの進展により軽自動車では飽き足らない人が増えてきた。
ユーザーは大きく豪華なクルマを求め、各メーカーともそのニーズに合わせて高性能車を続々と登場させていた。そんなイケイケ状態の日本のクルマ界に水を差したのが排ガス規制で、高性能車はことごとく牙を抜かれた状態になってしまった。そんな状況で一石を投じたのが1977年に登場した初代ダイハツシャレードだった。
初代シャレードはダイハツの独自開発
前述のとおり、排ガス規制下においても高性能車を求める人がいる一方で、「軽自動車じゃちょっと物足りないけど、そんなに大きなクルマは必要ない」、という”中流意識”を持った人のニーズに合致したのが初代シャレードで、軽自動車とあまり変わらない買い得感の高い新車価格もユーザーにウケた要因だ。
ダイハツはシャレードのデビュー時に、「クルマにとって真に必要な機能は何か原点に立ち返って開発したニューモデル」とコメントしていたとおりの意欲作だった。ダイハツは1967年にトヨタと業務提携してトヨタグループ入り。登録車についてはパブリカベースのコンソルテ、2代目カローラベースのシャルマンとトヨタ車をダイハツ流にアレンジしたモデルを投入していたのに対し、シャレードは完全にダイハツの自社開発のオリジナルという点も特筆ポイントだ。
キャッチフレーズは、『結晶。5平米(へいべい)カー』というもので、実際に全長3460mm、全幅1510mmを掛け合わせた投影面積は5.2 平米で、小さいけどユーティリティに優れたクルマであることをアピールしていた。
世界のトレンドを先取り
小さなボディに大きな室内スペース、というのはいつの時代もコンパクトカーが追求している永遠のテーマで、それは今のコンパクトカーも同じ。初代シャレードは、それを実現するために、3ドアハッチバックに加えて、リアの乗降性に優れセダン的にも使える5ドアハッチバックを採用。1L、4サイクル直列3気筒エンジンを横置きにしたFF(前輪駆動)、軽量化されたボディにより高いユーティリティと軽快な走り、優れた燃費性能を高いレベルでバランスさせていた。
BMC(ブリティッシュ・モーター・コーポレーション)のMINI(1959年登場)が先鞭をつけたFFは、小型車では日本で1970年代に入ってから採用車が増えて、1980年代に入ってから当たり前となったが、ダイハツはシャレードでトヨタより早くFF車を商品化。
さらに、1Lの4サイクル直列3気筒エンジンは戦後のクルマとしては世界初採用と、非常に挑戦的なクルマであることがわかるはず。
元祖リッターカー
日本独自のカテゴリーとして、「リッターカー」というものが存在した。今ではほとんど使われることがなくなっているが、日産マーチ、スズキカルタス1990年代までの日本車では人気カテゴリーだった。このリッターカーという表現は、初代シャレードが1Lエンジンを搭載していたことから命名されたもので、初代シャレードが元祖リッターカーなのだ。これも初代シャレードが話題になった証のひとつだ。
サファリラリーで名を上げた
実用的なコンパクトカーとして人気となった初代シャレードだが、世界一過酷なラリー(クルマ壊しとして有名)と言われたサファリラリーへの参戦は大きなトピックだろう。
わずか1Lのベーシックコンパクトカーながら、1982年のサファリラリーに3台のシャレードが投入され全車完走し、クラス優勝も果たしたのだ。「サファリが驚いた!」、「5000kmを走破!」とダイハツはその偉業を大々的にアピールし、シャレードのイメージもさらにアップした。
イエス、シャレード!!
初代シャレードのCMキャラクターはハーフタレントのセーラ。CMはセーラの「イエス、シャレード!!」のフレーズで終わるのだが、CMのことは覚えていなくても、このナイスな発音のフレーズを覚えている人は多いはず。
シャレードのデビューした1977年と言えば、スーパーカーブームの絶頂期。そのほかでは空前の歌謡曲ブームで、男性では沢田研二、女性ではピンク・レディーが日本の音楽界を席巻していたと記憶している。小学生でさえ歌番組にかじりつき、『平凡』、『明星』の付録の”歌本”が大人気だった。
アグレッシブな2代目
初代シャレードの成功により、ユーザーに「ダイハツって凄い!!」と印象付けたダイハツは、1983年に2代目シャレードを登場させた。ヒットした後のフルモデルチェンジは難しいと言われているが、結論から言うと2代目は初代を上回る販売をマークした。
2代目は初代よりさらにアグレッシブだった。元気な走りのターボモデル、デ・トマソ、世界最小排気量のディーゼルエンジン、モータースポーツ参戦などについて順に見ていく。
ホットハッチの先鞭をつける
2代目シャレードは、小さいけどユーティリティに優れるという初代のコンセプトをさらに進化させ広々とした室内を実現視程が、走りを劇的に進化させて若者にアピールした。
初代シャレードの成功をライバルメーカーが放っておくわけがなく、日産はマーチ、スズキはカルタス、スバルはジャスティを登場させてリッターカーマーケットに参入。
ライバルに対するダイハツの回答が、1Lターボエンジン搭載モデルの追加だった。1.3Lエンジンに匹敵する80ps/12.0kgmのスペックでライバルに差をつけた。「ネコ科のターボ」というキャッチフレーズのターボモデルによりライバルに先駆けてホットハッチ化を実現したのだ。
世界最小排気量のディーゼル搭載
2代目シャレードのトピックとしては、1L、3気筒のディーゼルエンジンの搭載も見逃せない。これは当時世界最小排気量のディーゼルエンジン、つまり世界初の1Lディーゼルエンジンということだ。デビュー時にはノンターボ(38ps/6.3kgm)のみだったが、後にターボ(50ps/9.3kgm)を追加して、ガソリンエンジン車と遜色のない動力性能を手に入れた。
この1Lディーゼルエンジンの60km/h定地燃費はノンターボが35.0km/L、ターボが38.0km/Lをマークして日本だけでなく世界を驚かせた。
ネガを逆手に取った大胆戦略
当時として世界最高レベルの燃費性能を誇った1Lディーゼルエンジンだが、21.5という高圧縮比だったこと、3気筒エンジンだったことによりガラガラ音と大きな振動を抑えることができていなかった。
今考えれば、「市販モデルのエンジンとしてどうなの?」「未完成品?」という感じだが、ダイハツはネガであるその音と振動を逆手にとって『Rock’nディーゼル』というキャッチコピーで大々的にアピールしたのだ。うるさい音も振動も、「ロックだからノープロブレムだろ!!」と暗に言っているのが凄いところ。
デ・トマソに憧れた!!
2代目シャレードの重要モデルとしてはデ・トマソの存在だろう。これにより若者のシャレードに対するイメージはさらにいいものになったのは言うまでもない。
ダイハツがイタリアのイノチェンティにエンジンを供給していた関係から実現。当時イノチェンティはデ・トマソが傘下に収めていたため、ダイハツとデ・トマソという夢のような日伊のコラボ車が登場することになったのだ。スーパーカー世代にとってデ・トマソパンテーラは人気の高かったモデルだったこともあり、デ・トマソへの憧れも強く、人気となったのは言うまでもない。
カンパニョーロのマグネシウムホイールはマニア垂涎
実はこのシャレード デ・トマソは1981年の東京モーターショーで初代シャレードをベースにしたモデルが公開されていたが市販されず。ファンをがっかりさせたが、晴れて2代目ベースのモデルが1984年に市販された。
エンジンは「ネコ科のターボ」と同じながら、デ・トマソが監修したエアロパーツ(前後バンパー、フロントグリル、テールゲートスポイラーなど)、パンテーラを彷彿とさせる赤/黒ツートーンのボディカラー、専用にローダウンされたサスペンション、専用バケットシートなどが奢られていた。
そして何よりもファンを喜ばせたのは、カンパニョーロのマグネシウムホイールだ。カンパニョーロはイタリアの自転車パーツメーカーだが、自動車ホイール部門もあって、カンパ(こう呼んでいた)のマグホールはクルマ好きの憧れの逸品だった。なにしろランチアストラトス、ランボルギーニミウラ/カウンタック、マセラティメラクなどイタリアンスーパーカー御用達だったからだ。
MOMOのステアリング、タイヤはピレリP8と合わせてイタリア製品でまとめられていたのもイタリアフリークもご満悦。それなのにターボが96万円だったのに対し、デ・トマソターボは123万円と専用装備を考えると超バーゲンプライスだった。
もう絶滅してしまった!?
デ・トマソの凄いのは限定車ではなくカタログモデルだったことで、ホットハッチ人気の高まりもあって、シャレードのイメージリーダーに君臨した。
赤/黒ツートーンがイメージカラーだったが、白いボディカラーのデ・トマソビアンカは500台限定で販売された。
シャレード デ・トマソは4代目で復活したが、初代ほどの特別感はなかった。2024年6月中旬現在、ネットで中古車検索をしても初代シャレード デ・トマソの出モノはゼロ。少なくともここ2年くらい見たことはない。残存しているモデルがゼロではないだろうが、それに近い状態だと予想できる。現在所有している方は、大事に乗っていただきたい。
世界最小のグループBカー登場!!
シャレードターボは市販車としては高性能だったが、モータースポーツに参戦するとなるとその参戦クラスが重要になってくる。そのクラスは排気量で分けられている。
シャレードの1Lターボエンジンの正確な排気量は993ccで、ターボエンジンはノンターボエンジンとのハンデをなくすためにターボ係数というのをかけたものによって排気量クラスが決まる。
当時のターボ係数は1.4だったので、シャレードターボは993cc×1,4=1390.2ccとなり、1300~1600ccクラスとなるが、1600ccクラスのパワーがあるわけではないので大きなハンデとなる。それを嫌ったダイハツは、1300cc未満のクラスで戦うために、926ccに排気量ダウンさせた926ターボを登場させた(926cc×1.4=1296.4cc)。
問題となったのはホモロゲーション取得で、グループAは連続する12カ月で5000台、グループBは200台のそれぞれ生産義務があるなか、ダイハツが選んだのはグループB。ということで826ターボは200台限定で販売された。
ポルシェ930ターボを彷彿とさせる車名、排気量が車名になっていること、日本車では希少なグループBホモロゲ取得車というスペシャル性によりあっという間に完売した。
1980年代前半から中盤にかけて最も画期的でニュースになったコンパクトカーだ。
幻に終わった究極のシャレード
2代目シャレードを象徴するデ・トマソ、グループBのホモロゲを取得した926ターボをミックスした究極の社レートというべきモデル、デ・トマソ926Rが1985年の東京モーターショーに出展された。
デ・トマソ926Rは、エンジンをミドに搭載し後輪駆動に変更。大きく膨らんだ前後のブリスターフェンダーによるワイドボディ、エアインテーク/エアアウトレット、ダクト類も精悍で、ルノーサンクターボを彷彿とさせるスペシャルシャレードだった。
当然ながら市販を切望する声は高く、当時クルマ雑誌などでその存在を知った筆者もワクワクしたが、市販されず幻に終わった。真偽は不明だがダイハツではなくデ・トマソのプロモーションモデルだったという説が有力だ。
1970年代から1980年代の革命的コンパクト
初代以上の成功を収めた2代目シャレードは、1987年まで販売され3代目にバトンタッチ。3代目は洗練されたデザイン、ハイパワーエンジンの搭載などで玄人受けしたが、初代、2代目のようなインパクトは薄かった。
今思い返しても、初代、2代目シャレードは革命的で、ライバルに大きな影響を与えたモデルだと痛感する。その存在感はトヨタ、日産をも凌駕するものだった。
【シャレードデ・トマソ主要諸元】
全長3600×全幅1575×全高1390mm
ホイールベース:2320mm
車重:690kg
エンジン:993cc、直列3気筒SOHCターボ
最高出力:80ps/5500rpm
最大トルク:12.0kgm/3500rpm
価格:123万円(5MT)
【豆知識】
3代目シャレードは1987~1993年まで販売された。2代目が角ばったデザインだったのに対し、3代目は空力を意識した滑らかなエアロフォルムが特徴でドイツ車テイストに仕上げられていた。エンジンもトップグレードのGTtiの1LターボはSOHCからDOHCとなりリッターあたり100psを超える105psをマークするなど進化を遂げたが、販売面ではインパクトを残せず。ただダイハツ党からは根強く支持されていた。1989年にはシリーズ初となるセダンボディのシャレードソシアルが派生モデルとして登場した。
市原信幸
1966年、広島県生まれのかに座。この世代の例にもれず小学生の時に池沢早人師(旧ペンネームは池沢さとし)先生の漫画『サーキットの狼』(『週刊少年ジャンプ』に1975~1979年連載)に端を発するスーパーカーブームを経験。ブームが去った後もクルマ濃度は薄まるどころか増すばかり。大学入学時に上京し、新卒で三推社(現講談社ビーシー)に入社。以後、30年近く『ベストカー』の編集に携わる。
写真/DAIHATSU、ベストカー、ベストカーWeb