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家康を感激させたお千代のファインプレー

まだあります。お千代さんの最大のファインプレーは、関ヶ原の合戦の開戦前のことです。この時、一豊は豊臣恩顧の武将ながら、福島正則や黒田長政といった石田三成嫌いの武断派に属し,家康とともに上杉討伐のため会津に向かいます。7月末、一行が古河に入った頃にこんなことがありました。

一豊のもとに、お千代さんから早飛脚がやってきたのです。この飛脚の名は田中孫作といいまして、一豊の家臣です。彼は一豊が最も信頼していた家臣でしたから、お千代さんからの連絡だとピンときます。その孫作が文箱と一緒に笠の緒により込んだ一通の密書を手渡します。密書はお千代さんからのもので、そこには三成が挙兵したことと、自分のことは心配せず,家康様に忠節を尽くしなさいとあったといいます。

お千代は文箱は開けないでそのまま家康に届け、二心がないことを証明なさりませ、とアドバイス。さらに翌朝の軍議で家康がこのまま会津に向かうか、引き返して三成と戦うか、あるいは三成に味方するかを尋ねた時には、一豊は福島正則や黒田長政に続き、即刻家康に味方することを断言したのみならず、その場で自分の掛川城を提供すると発言し,家康を感激させます。

掛川城の天守閣から眺めた街並み Photo by Adobe Stock

土佐24万5000石の領主へ

これらはみんな千代さんのシナリオです。これをきっかけに、他の東海道に城を持つ武将たちも同様に忠誠を誓うんですね。これがいわゆる小山評定です。

そう思うと、お千代さんの笠の緒により込んだ密書にあった「指示」が、この天下分け目の戦いの帰趨に大きく影響したと思います。東軍の勝利を呼び込むきっかけを作った、その意味でお千代さんの密書は値千金でした。頼山陽は後にこの経緯を「一条の笠の緒に繋ぐ八行の字」と詠んでいます。

また司馬遼太郎は一豊のことを、「大物ではないが、小物でもない」と評していますが、まさに言い得て妙。姉川・金ヶ崎の戦いで左目に敵の矢を受け、刺さったまま戦いを続けた、という武勇伝以外に武功はありませんでしたが、関ヶ原の後は、土佐24万5000石の領主となるのです。

掛川城の武者返し Photo by Adobe Stock
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