3、4日目一泊二日の北海道出張。その間ずっと執筆も
9月21日(土)。宇野浩二、広津和郎、宮沢賢治、トリプル命日。イヤな予感。
昨夜は寝ずに原稿、明けがたに机上に俯伏せてまどろむ。午前6時30分起床(正しくは起机)。
不幸にして飛行機は飛んでいるという。ただちに羽田へと向かう。車中にて失神。夢も見ず。目覚めてのち、家族犬猫に永訣の言葉をかけなかたことを悔やむ。
イヤな予感を振り払い、突如として軍歌「歩兵の本領」および「討匪行(とうひこう)」を高吟する。運転手おびえる。
ANAフロントにて、JRA担当者お待ちかね。仕事の内容は月刊誌「優駿」の「函館競馬観戦記」取材である。日程の都合上、開催最終週の函館行きとなってしまった。つまり、後がない。
8時50分フライト。連休初日で満席。ストレスと天候不良のため、酔う。頭痛、吐き気、目まい、もはやこれまでという気がする。折も折、携帯電話さかんに鳴る。そのつど「ひとごろしッ!」と、コール・バック。スチュワーデスに叱責される。
函館空港より競馬場へ直行。スタンド入り。
バクチも今生の打ちおさめという気がし、冷静さを欠く。しかも、台風が来ておるのだから馬券も荒れるであろうという、甚(はなは)だ非科学的根拠により、惨敗。
メインレース「函館三歳ステークス」のゴール直後、失神。混濁せる意識のうちにフト考える。書斎で死ぬならまだしも函館競馬場のスタンドで客死では、文壇の笑いぐさであろう。ほとんど「無法松の一生」であろう、と。
勇を鼓して起き上がり、よろめきつつパドックへ向かう。山口瞳先生のまぼろしを見る。大橋巨泉さんの生霊も見る。スタンドへ引き返すとき、敷居に蹴つまずいて転ぶ。相変わらず鳴り続ける携帯電話を杖にして立ち上がり、最終レースに法外の勝負。当然惨敗。ケツから二頭を馬番連単で的中させる。気をたしかに持っていたので失神せずにすんだが、少々失禁。
般若心教を唱えつつホテルへ帰る。
ベッドに倒れこんだとたん、電話が鳴る。密着取材の写真週刊誌記者から、ただいま到着の報せ。到着って、どこに到着したのだと問えば、函館ですと言う。仰天。
意識朦朧(もうろう)状態のまま市中にてJRAのみなさんと会食。ウーロン茶を牛飲。夜半ホテルに戻り、エロビデオも見ず、昨日締切の原稿を書く。物語、詰まる。おとといからクソも詰まっている。
泣く泣く「駿河屋」の女性編集者に原稿遅延のむね電話を入れる。
(あまりご無理をなさらないで下さいね。お気をつけて)とか、やさしいねぎらいの言葉をかけてくれるかと思いきや、突如武闘派の声で、
「そーですか。では連休明けまでは待ちましょう。火曜日午後5時、いいですね」
枕に顔を埋めてしばらく泣いたのち、写経。
9月22日(日)。台風接近。
東京は暴風雨だという。できれば文京区音羽、千代田区駿河台、同紀尾井町、港区汐留あたりが壊滅していれば良いと祈る。
午前5時30分就寝、同7時30分、写真週刊誌の一団の手で眠ったまま朝市へと拉致される。雑踏の中で撮影。羞恥心まったく感じず、タラバガニの山の中に自分の首が置かれているまぼろしを見る。
「青函丼」なる朝食を食った記憶があるが、詳細不明。赤レンガの倉庫群に移動し、さらに撮影。タクシーの中で血圧急激に低下、臨死体験をする。お花畑の向こうで、亡父、おいでおいでをし、やだやだと拒否する。
競馬場で撮影後、ゴンドラ席へ招かれる。ソファで寝るわけにも行かんので、眠気ざましに馬券を買い、失神。かつ失禁。
台風が北上しているので帰りの飛行機は飛ばんかも知れんとの噂。もう矢でも鉄砲でも持ってこい、台風ならなおいい、という気分であった。
不幸にしてJALは飛んだ。当然の如く無茶苦茶に揺れ、嘔吐、不整脈、過呼吸。ほとんど多臓器不全。
ついに羽田空港到着ロビーにて死亡。と思いきや、売店店頭に『蒼穹の昴』『天切り松闇がたり』の両著ヒラ積み状態を見て、にわかに蘇生。
書かねば……と呪文のように呟きつつ、吐瀉物と糞尿にまみれて帰宅。
かくて私は、本稿を書いている。午前5時30分。脱。稿。
頭も体も限りはあるが、勇気は全能だ。
(初出/週刊現代1996年10月19日号)
浅田次郎
1951年東京生まれ。1995年『地下鉄(メトロ)に乗って』で第16回吉川英治文学新人賞を受賞。以降、『鉄道員(ぽっぽや)』で1997年に第117回直木賞、2000年『壬生義士伝』で第13回柴田錬三郎賞、2006年『お腹(はら)召しませ』で第1回中央公論文芸賞・第10回司馬遼太郎賞、2008年『中原の虹』で第42回吉川英治文学賞、2010年『終わらざる夏』で第64回毎日出版文化賞、2016年『帰郷』で第43回大佛次郎賞を受賞するなど数々の文学賞に輝く。また旺盛な執筆活動とその功績により、2015年に紫綬褒章を受章、2019年に第67回菊池寛賞を受賞している。他に『きんぴか』『プリズンホテル』『天切り松 闇がたり』『蒼穹の昴』のシリーズや『日輪の遺産』『憑神』『赤猫異聞』『一路』『神坐す山の物語』『ブラック オア ホワイト』『わが心のジェニファー』『おもかげ』『長く高い壁 The Great Wall』『大名倒産』『流人道中記』『兵諌』『母の待つ里』など多数の著書がある。