「海の上を歩いた?」
一揆は島原・有馬村のキリシタンが、代官の林兵左衛門を殺害したことに端を発しました。島原藩は討伐軍を出すものの、逆に一揆勢に追われて島原城に籠城するはめになります。肥後天草でも天草四郎を司令官として一揆が勃発。富岡城にこもる唐津藩兵を攻め、落城寸前まで追い詰めます。天草四郎は海の上を歩いたとか、盲目の女の子の目を見えるようにしたという“奇跡”が語られ、カリスマ指導者としてかつぎあげました。
この時点では、島原と天草の一揆は別々のものでしたが、天草の一揆軍は鎮圧軍が向かっていることを知り、有明海を渡って島原の一揆軍に合流することを選びました。両軍は廃城だった原城に籠城します。その数は女子どももあわせて約3万7000人といわれます。
鎮圧軍を指揮したのは板倉重昌でしたが、1万5000石の小藩の大名で、九州の諸大名は言うことを聞きません。戦の長期化を憂慮した幕府は、老中・松平信綱の派遣を決定します。これを聞き焦った板倉重昌は総攻撃を命じますが、多くの死傷者を出し、自身も突撃して戦死してしまいます。
死体の胃を調べて、兵糧が少ないことを知り…
元和元(1615)年、豊臣氏を滅ぼした徳川幕府にとって、島原の乱は絶対に押さえ込まなければならない一揆でした。だからこそ、老中・松平信綱の派遣なのです。彼は12万人もの討伐軍によって海と陸から原城を完全に包囲します。生け捕りにした天草四郎の母や姉妹には、投降するよう手紙を書かせたりしますが成功しません。
しかし信綱は焦らず、兵糧攻めで一揆軍を追い詰め、城外に出た一揆軍の兵士を討ち取り、死体の胃を見聞した結果、海藻しかなく兵糧が尽きかけていると知ります。またオランダに頼みオランダ船から艦砲射撃を行い、同じキリスト教を信じる一揆軍に動揺を与えることに成功します。