国内の1都2府5県にある122代(重祚〔ちょうそ〕の2代を除く)の天皇御陵(ごりょう)のうち、その半数にあたる69代の御陵が京都府に存在する。具体的には、京都市内68代、長岡京市1代であり、天皇御陵の約57%にものぼる。“千年の都”と称される京都の御陵には、街との調和が図られ、存在感を感じさせない静寂さがそこにはあった。
※トップ画像は、花園天皇の十樂院上陵(じゅうらくいんのうえのみささぎ)=2008(平成20)年11月23日、京都市東山区
第38代の天智天皇に始まり、第122代の明治天皇まで
御陵とは、天皇、皇后、皇太后、太皇太后の墓のこと。京都府にある天皇御陵は、西暦668年に即位した第38代・天智天皇(てんじてんのう)にはじまり、50、52~74、76~80、82~95、98~第122代の明治天皇まで69人を数える。このなかに重祚(一度譲位した天皇が再び位に就くこと)した天皇はいない。
しかし、69人の天皇に対して、御陵の数は48か所しかない。これは「合葬(がっそう)」といって、同じ御陵に埋葬された天皇が24人いるからで、単独御陵は45か所、合葬御陵は3か所がある。合葬御陵は、京都市東山区にある第113代・東山天皇(ひがしやまてんのう)らの月輪陵(つきのわのみささぎ)と、第121代・孝明天皇(こうめいてんのう)らの後月輪陵(のちのつきのわのみささぎ)、同市伏見区にある第93代・後伏見天皇(ごふしみてんのう)らの深草北陵(ふかくさのきたのみささぎ)である。
花園天皇とは
第95代・花園天皇(はなぞのてんのう)は、第92代・伏見天皇(ふしみてんのう)の皇子で、その生涯は鎌倉時代の1297年から室町時代の1348年まで数え52年だった。天皇に在位したのは、1308年から1318年の10年間で、歌道、学問、書道に優れていたと云われ、和歌の世界では「風雅和歌集(ふうがわかしゅう)」に、真名(まな=漢字)と仮名の両序文を執筆し、その監修も行ったという。日記『花園天皇宸記(はなぞのてんのうしんき)』は、天皇の直筆とされる「宸筆(しんぴつ)」の原本が、今も宮内庁書陵部図書寮文庫に所蔵される。