ユーザーのニーズに合わせて進化
ミラージュは成功したクルマの例に漏れず、絶えず進化していった。デビュー時は3ドアハッチバック(三菱では2ドアと呼んでいた)のみだったが、すぐに5ドアハッチバック(同4ドア)を追加し、より乗降性の高い5ドアは人気となった。
そしてエンジン。デビュー時は1.2Lと1.4Lエンジンの2種類ありどちらのエンジンも軽い回転フィールで非常にスムーズ。ミラージュの楽しい走りにも大きく貢献していた。
その一方でコンパクトハッチバックにもパワーウォーズが訪れ、それに合わせて1.6Lのハイパワーモデルを追加してユーザーのニーズに応えると同時にライバルに対抗。
エンジンでは、1982年にコンパクトハッチバッククラスでは初となる1.4Lターボエンジンを搭載し、パワーウォーズをけん引するなどこの当時の三菱はイケイケ状態だった。
ちなみに、ターボエンジンと同時に4ドアセダンも追加され、この時に車名がミラージュからミラージュIIへと変更された。マイチェンで車名が変更されるのは珍しい。
子どもに見せちゃダメ!?
ミラージュのTV CMと言えばエリマキトカゲが一世を風靡したが、これは2代目ミラージュ。初代ミラージュのTV CMはエリマキトカゲ編のようなインパクトはなかったが、いろいろなバリエーションが製作され放映された。
個人的に一番印象に残っているのは、特別仕様車の『BLACK MIRAGE』(1879年・450台限定)のCMで6人の外国人女性モデルがそれぞれM、I、R、A、G、Eと書かれたパンツをはいて踊って、最後に6人並んでMIRAGEの文字を見せるというもの。子どもにとってはちょっとエロっぽくてドキドキしたものだ。
そのほかではミラージュIIになってからのCMで、アメリカのインディ500のインディアナポリスを走るというもの。合成していたのだと思うが、出来はよかった。
プロモーションが斬新
ミラージュはプロモーションにこだわっていたのは特筆に値する。
まずはカタログ。クルマのカタログは今ではすべて合成写真となっているが、昔はロケが当たり前。三菱はミラージュの車名に合わせて、アメリカのロサンゼルス近郊にあるエル・ミラージュ湖での撮影。このこだわりが凄い。
続いてはミラージュボウル。NCAAカレッジフットボウルの試合を三菱がスポンサーとなり1977~1985年まで東京で開催。前身はパイオニアボール、1986年からはコカ・コーラボウルとなったが。デビュー直前の1977年はミラージュのプレキャンペーンとして開催されていた。
もうひとつは映画『未知との遭遇』(日本では1978年2月公開/スティーブン・スピルバーグ監督作品)とのコラボ。ミラージュのデビュー直前に日本後悔となった話題作とタイアップして、CMやポスターで大々的にアピール。ただし、初代ミラージュは作中には一切登場しない。単なるイメージ戦略だったが、やることが積極的!!
若者の取り込みに成功
初代ミラージュは販売面でも成功し、長きにわたって三菱の最量販車種に君臨。ランサーとともにモータースポーツ車両としてもクルマ好きを支えてきた。
初代ミラージュの登場を機に三菱ギャラン店しかなかったところに三菱カープラザ店(現在は消滅)という販売チャンネルが新設された。
前述のとおり、三菱はギャランΣ、Λの成功により知名度を上げた三菱だったが、最優先課題は若者の取り込み。
ちょっとお堅いイメージのあった三菱車にあってクルマ好きの若者に欲しいと思わせたのは、初代ミラージュだったのは間違いない。
【初代三菱ミラージュ1400GLX主要諸元】
全長3790×全幅1585×全高1350mm
ホイールベース:2300mm
車両重量:795kg
エンジン:1410cc、直列4気筒SOHC
最高出力:82ps/5500rpm
最大トルク:12.1kgm/3500rpm
価格:92万2000円(4MT)
【豆知識】
三菱のビッグネームであるギャランは1969年に初代がデビュー。ここで取り上げる3代目は1976~1980年の間に販売されたモデル。ギャランシリーズに初めてΣのサブネームが付けられたモデルで、Σは4ドアセダン&バンのラインナップ。同じコンポーネントを使った2ドアクーペとしてΛも用意され、どちらも大ヒット。
エクステリアデザインはΣがヨーロピアンテイストだったのに対しΛはアメリカンテイストと差別化されていた。特にΛはクライスラーにOEM供給され、プリムスサッポロ、ダッジチャージャーとして販売されていた。
市原信幸
1966年、広島県生まれのかに座。この世代の例にもれず小学生の時に池沢早人師(旧ペンネームは池沢さとし)先生の漫画『サーキットの狼』(『週刊少年ジャンプ』に1975~1979年連載)に端を発するスーパーカーブームを経験。ブームが去った後もクルマ濃度は薄まるどころか増すばかり。大学入学時に上京し、新卒で三推社(現講談社ビーシー)に入社。以後、30年近く『ベストカー』の編集に携わる。
写真/MITSUBISHI、ベストカー