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困った爺さんを演じた官兵衛の真意とは?

また、その頃のエピソードに面白いものがあります。

晩年の官兵衛は、わからず屋の困った爺さんを自ら演じて見せました。

家臣たちの苦情に音をあげた長政が、「父上、なにとぞご勘弁を」と頭を下げると、官兵衛はにやりと笑って、「お前の家臣たちは心の中で、早くあのじいさんが死なないだろうか、と思うであろう。それはそっくり、お前さんへの待望論になるのだよ。お前はやりやすくなり、黒田家も安泰ということじゃ」と語ったということです。

真偽のほどははっきりしませんが、なんとも官兵衛らしい逸話です。

福岡城の潮見櫓 Photo by Adobe Stock

2歳年下、槍の名手・後藤又兵衛

さて、黒田家の主君である小寺家には後藤家が仕えており、後に大坂夏の陣で真田幸村らとともに壮絶な最期を遂げる後藤又兵衛こと後藤基次も、長政の家臣でした。長政と、彼より2歳年下の又兵衛は、官兵衛の方針により兄弟のように育てられますが、長政より又兵衛のほうが槍の名手であり、官兵衛もことにかわいがっていたため、長政はずっと嫉妬の念を燃やしていたといわれます。

朝鮮の役でも関ヶ原の合戦でも、黒田軍は大活躍を見せますが、又兵衛あっての黒田軍という面もありました。長政は面白くありません。関ヶ原の合戦の後も2人にはいざこざが絶えず、ついに又兵衛は長政のもとを去りました。

福岡城の石垣 Photo by Adobe Stock

「黒田家とのケンカとみなす」

当時は、徳川と豊臣の間にもう一戦あると皆が思っている時代でしたから、戦上手の又兵衛を諸大名が放っておくはずがありません。細川忠興、前田利長、結城秀康らは、多額の報酬で又兵衛を迎えようとしました。

しかし、長政は絶対に士官させまいと横やりを入れてきます。「奉公構(ほうこうかまい・ほうこうかまえ)」というのがそれで、「奴を仕官させたら、その大名は黒田家とのケンカ宣言とみなす」というのです。

大濠公園 Photo by Adobe Stock
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確執が大坂夏の陣でのドラマを生んだ...
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松平定知
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