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出店OKの返事がなくても、店を作る決断を

私・岩岡はいろいろ考えた挙句、腹を決めて「ある決断」をしました。その決断とは、「出店の返事がなくても店を作って、伸宜さんが出店できるタイミングまで待つ」という、賭けに出ました。

すぐに、札幌に行き、伸宜さんにその旨を伝え、ラーメン博物館内の店舗図面と、パース(完成予想図)を手渡し、横浜に舞い戻りました。

そのときの私がラーメン博物館のスタッフに伝えた思いはこんな感じでした。

「約3年の間、100回以上通ったし、伸宜さんにもいろいろと事情があると思う。それがクリアになったときに気持ちよく出店してもらえるまで待つことにしたい。スタッフ皆は大反対だと思うけど(笑)」

そしてその数日後、突然札幌から、伸宜さんが新横浜に来られたのでした。

伸宜さんは、こう言ってくださいました。「岩岡さんが人生かけて勝負するラーメン博物館が、どれほどのものか気になってね。その景色、俺も一緒に見させてほしい」――と。

そして、「家族の反対を押し切って出店する。だから申し訳ないが、“純連”という屋号は使えない。ひらがなの“すみれ”でもいいか?」とも。

私は即座に答えました。

「はい!僕は伸宜さんのラーメンの味に惚れたんです! ひらがなの“すみれ”で来てください!」

「すみれ」中の島本店の濃厚味噌ラーメン

思えば、「純連(すみれ)」と出会ってから3年の歳月を経て、札幌の「すみれ」のラーメン博物館出店が決まったのです。その後、札幌のお店も、もとの「純連」の漢字の屋号から、ひらがなの「すみれ」となり、今に至ります。

「最初は詐欺師かと……」と

店主の村中伸宜さんは、当時の私への思いを次のように語ります。

「最初は詐欺師かと思いました(笑)。しかし何度も何度も通っていただき、次第に出店してみたいと思うようになりました。

「すみれ」店主の村中伸宜さん(右)とラー博・岩岡(左)。札幌の「すみれ」中の島本店で

ただ、“すみれ”の味は母が作ったもので、私の一存では決められないし、父と兄は大反対でした。反対したのは“絶対失敗する”という理由からでした。

私はお客さまが来るかどうかという不安よりも、この味が首都圏で通用するのか試してみたい、そして兄のお店“純連(じゅんれん)”を超えたいという思いのほうが強かったのです。

今考えればちっぽけなプライドですが、私にとってはラー博の出店が、人生の大きな分岐点でした」

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1994年、ラー博オープン当時の味で復活...
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おとなの週末Web編集部
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