本当の屋号は「すみれ」なのに、なぜ「じゅんれん」?
しかしこれだけの説明ではすべてを語れません。最初に申し上げたように1964年の開業当時は、「純連」と書いて「すみれ」と読みました。しかし、オープンして月日がたち、お店の看板の「純連」という文字の上にふられてあったフリガナが、長年の雨風によって取れてしまい、本当の屋号を知らないお客さまが、「じゅんれん」と呼ぶようになったのです。
その後、札幌屈指の人気店となった「純連」でしたが、1982年の6月末に、突然店を閉めることになったのです。それは明子さんが股関節亜脱臼になり、これ以上、仕事を続けることができなくなったからでした。
しかし、明子さんはあきらめることができず、翌1983年に、約1年間のブランクを経て、「純連」を再開しました。
この時、当時のお客さまのほとんどが「純連」のことを「じゅんれん」と呼んでいたため、あえてもともとの屋号であった「すみれ」とは呼ばず、「じゅんれん」の屋号で再開することとなったのです。
その後、跡を継いだ長男の教愛さんが1987 年に、正式に「純連( じゅんれん)」の名で店をオープンし、1989年には三男の伸宜さんが、「純連(すみれ)」の名で店をオープンしました。
こうして明子さんが作り上げた味は、2つの屋号で現在まで継承されているのです。
館長・岩岡が衝撃を受けた味。ラー博に出店へ
私と、「すみれ」となった「純連」との出会いは、新横浜ラーメン博物館がオープンする3年前の1991年でした。
ラー博の創業者である私・岩岡が、調査のため、全国を食べ歩いていた頃です。当時のメモが残っていますが、私は相当な衝撃を受けました。
私は食べたあとすぐに「純連(すみれ)」のお店で、「横浜でラーメン博物館を開業する予定があり、ご出店いただけませんか?」と、いきなり交渉をしていたのです。
もちろん門前払いでしたが、横浜に戻った私はメンバーにこう断言していました。
「札幌の純連(すみれ)の味噌ラーメンは衝撃の味だ。これを横浜に持ってきたら絶対ラーメン博物館の目玉になる!俺はあきらめず何度でも通う!」
私はまずは顔を覚えてもらうため、札幌に行くと5日間は滞在し、昼と夜、毎日ラーメンを「純連(すみれ)」に食べに行きました。そして4日目の日、ついにお店の店主である三男・伸宜さんから、「俺に何か用か?」と、声をかけていただける機会ができたのです。
私・岩岡はラーメン博物館の構想や夢を語るも、伸宜さんからは、「うちは家族経営でやっている。前にも言ったがこの店で手一杯なんだ。味も門外不出。だから、横浜でラーメンを作るなんて、無理な話だよ……」と、そこは断られてしまいました。