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弟子の力を借りての復活プロジェクト

神藤さんによると、「努力とセンスが際立った弟子で、わずか5年弱で独立を認めた優秀なヤツだよ。今は浜松に移り住み、自分のお店を20年以上繁盛させている」とのこと。私も袴田さんが、ラー博出店時に働いていたことは記憶していましたので、さっそく浜松の袴田さんの店に食べに行きました。

弟子の「蔵前家」店主の袴田さんは、神藤さんの理想とするスープをさらに進化させるため、寸胴の鍋でなく、大釜でスープをとるように変えた

そして、今回のプロジェクトは、先にもふれた別経営ながら「六角家戸塚店」を切り盛りする神藤さんの弟・神藤誠さんや、神藤さんの姪である露木あゆみさんにも協力・賛同いただき、スタートを切ることになりました。

ラー博30周年企画からレギュラー店にとして復活した「六角家1994 +」。弟子の袴田祐司さん(左)が店を担当し、神藤さんの姪・露木あゆみさん(中央)や、神藤さんの弟・神藤誠さんらの協力を得ての復活実現だった。袴田さんは「六角家」の創業者・神藤さんのもとで5年修業。新横浜ラーメン博物館出店時の店長も務めた。写真右は館長・岩岡=2023年

「六角家」の遺志を継いだ浜松のお弟子さん

袴田さんは1972年、浜松生まれ。実家は1974年から続く浜松餃子の老舗「紀楽」を営んでいます。「紀楽」ではラーメンも出していましたが、袴田さんはさらにおいしいラーメンを出したいと思っていました。そこで袴田さんは、「新横浜のラーメン博物館に行けばおいしいラーメンがあるはず」と、ラー博を訪れ、そこで食べた「六角家」の味に衝撃を受けたのです。その後、毎週のように浜松から六角橋の本店やラー博に通っていましたが、ある日、六角橋の本店を訪れたとき、店先に「急募」と掲げられた求人募集を見て、袴田さんは迷わずに連絡をしたとのことでした。

こうして、袴田さんが「六角家」に弟子入りしたのは1996年の3月。最初は本店、その後は、ラー博店でも働くようになりました。袴田さんによると、「当時の六角家は本当に厳しい世界で、2~3日でやめる人がほとんどで、10人弟子がいたとしても残るのはひとりくらいでした。自分は早く独立したかったため、誰よりも早く店に入り、技術を身に付けました。あの頃は朝早く本店の仕込みを終えてから、ラー博店の調理に入るなど、朝から晩まで働いていましたね。あの苦労があって今があると思います」ということでした。

「六角家」は厳しい修業で知られ、2~3日でやめる人がほとんどだったという

そんな袴田さんはやがて独立が認められ、2001年の5月まで「六角家」で働いたあと、2001年7月26日に東京都台東区寿3丁目に「蔵前家」をオープンさせます。その後は、2009年4月4日に浜松に店を移し、大繁盛の現在に至ります。

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おとなの週末Web編集部
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